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現象、物質、連続的同一性、認識とは何か:連続的同一性と差異的同一性:内超的差異
=複素数存在 テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係 ここで、基本概念について整理したい。 主体→他者の→は連続的同一性志向性を意味する。そして、それは、主体による他者の同一性化である。そして、これは、自我を形成する(議論を簡明にするために、近代的自我をここに含めておく)。他者Xは、主体Aによって言語等を介して、連続的同一性化される。例えば、他者Xは、「木」となる。言語「木」を介して、主体Aと他者Xは、連続的同一性化しているのである。このとき、主体Aの差異、他者Xの差異は否定されているのである。つまり、本来は、他者Xは差異的同一性であり、主体Aも差異的同一性であるのであるにもかかわらず。ここでは、A= A、X=X、A≠Xが成立しているのである。連続的同一性論理があるのである。これは、自己認識方程式では、-{i*(-i)}⇒−1であろう。 では、問題は、現象化とは何かと再考しよう。これまで、現象化を、連続的同一性化と同一視してきた。そうすると、主体・心と他者・身体との連続的同一性化が、現象化であり、同時に、自我化である。 ここで問題は、既述したように、2つの連続的同一性化が生起することである。即ち、主体→他者と主体←他者である。これは、結果は、両者、⇒−1となり、同値である。しかし、意味するものは異なる。前者は、心的連続的同一性であり、後者は身体的連続的同一性である。(以下、連続的同一性を簡略化して、連一性と呼びたい。) 心的連一性と身体的連一性とは、何だろうか。これは、明らかに、二元論であり、二項対立である。シーソーである。優劣コンプレックスである。しかし、事象に即して、考えたい(即事ないし即事性と言おう)。即事的に言うと、心的連一性は、自我形成であり、身体的連一性は物質的身体の形成であろう。つまり、自我と物質身体との二元論・二項対立が成立するということである。結局、現象化=連続的同一性化とは、自我/物質身体の二元論的形成であるということになるだろう。ここで、自我を知覚・認識としてもいいだろう。自我/物質身体は知覚(認識)/物質身体となり、これは、人間を含めた動物の現象様態を説明するだろう。 さらに、知覚(認識)を広義の感覚とすれば、即ち、感覚/物質身体とすれば、植物も含めることができるし、さらには、鉱物・無機物も含めることができるだろう。これで、現象化=連続的同一性化が感覚/物質身体の二元論化であることになった。これは、作業仮説・思考実験である。 とまれ、ここで、アインシュタインの公式E=mc^2を適用すると、このエネルギーEは、連一性のエネルギーであると見ることが可能であろう。思うに、心的連一性エネルギーを+エネルギーとすると、身体的連一性エネルギーは−エネルギーとなるだろう。あるいは、逆でもかまわない。ここで、思考実験だが、+エネルギーを通常のエネルギーとすれば、−エネルギーはダークエネルギーと関係するのではないだろうか。(先の考察からすると、神秘主義的エネルギーとなるだろう。闇のエネルギーである。思うに、近代主義は、光と闇の二元論であり、近代合理主義が光であるものの、他方の影として、神秘主義・オカルト主義・霊的世界観をもつということと、これは関係するように思えるのである。小泉/安倍自公政権は、この光/闇路線であると考えられるのである。) とまれ、以上から、本件のテーマが説明することができたことになる。単純に言えば、現象化とは二元論的連一化(連続的同一性化)である。そして、これは、森羅万象に当てはまるということになる。 ここで、差異的同一性について検討しなくてはならない。なぜなら、現象化とは、本来、差異的同一性化であると述べたからであり、以上の結論と齟齬になっているからである。この矛盾をどう見るのか。 この問題は自然・宇宙の創造力学に関わる問題である。現象化は確かに、連一化であるが、自然は、単に、現象だけではないと考えなくてはならない。つまり、当然ながら、根源には差異ないし差異共振シナジーがあるのであり、その連一化が現象化であるからである。この点の様相を検討しよう。 問題は、差異と連一性との関係である。現象化=連一化で感覚/物質が生起するが、ここで生起した現象個体は、確かに、連一的個体(連一体)であるが、しかし、差異的に見ると、差異を否定・排除・隠蔽した様態であるが、この差異は、潜在していると見なくてはならない。つまり、現象個体=連一体において潜在的差異が存するということである。だから、この潜在的差異を含めた現象個体=連一体が差異的同一性であると考えられるだろう。つまり、視点の問題である。単に現象界のみの視点からは、現象化とは、連一体化に過ぎないが、差異的イデア界(差異共振シナジー・即非界・イデア=メディア界)の視点から見ると、現象化とは、差異的同一性化となると言えよう。これを作業仮説・思考実験としておく。 では、問題は、この潜在的差異の領域の問題である。これは、先に提起しておいたドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の問題と関わると言えよう。あるいは、ジョルダーノ・ブルーノの一性の問題と。そして、さらに言えば、私が推測する限りのシェリングの自然/精神の対極・相補的同一哲学とも関係するのである。 しかしながら、この問題は既に考察済みである。これは、内在的超越性の問題なのである。あるいは、虚軸・虚次元と実軸・実空間の関係(ガウス平面座標上の回転)の問題なのである。つまり、潜在的差異とは、内在的超越性(内超性)、虚数的存在なのである。これが、現象界・実次元からは、不可視・不可知になるのである。この内在超越次元(内超次元)に関しては、キルケゴールとフッサールが把捉していたと考えられるのである。【これは、当然、単に、内在性(ドゥルーズ&ガタリ)ではないし、単に、超越性(超越神性)ではない。】思うに、この点を明確に解明し確立したのは、プラトニック・シナジー理論だけと考えているのである。 結局、潜在的差異とは内超的差異(複素数存在)であり、これが、思うに、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」、ジョルダーノ・ブルーノの一性、シェリングの精神/自然の対極的同一性と重なると推察できるのである。これで、本件の考察を終えたい。 #
by antares11131954
| 2007-01-07 03:38
| PLATONIC SYNERGY
もう一度、認識と身体について考えたい。先に認識が存在であると述べた。志向性は存在でもあるのである。知即存在である。これは、言い換えると、思惟即延長ではないだろうか。あるいは、精神即身体ではないだろうか。心即身体である。
しかし、先に、連続的同一性によって、物質化が生起すると考えたのである。心身二元論である。i*(-i)であるが、これは、主体と他者の差異共振シナジー相であるが、主体iは心、他者-iは身体と見てきたのである。つまり、心と身体とが、差異共振シナジー相では、即非様相にあるのである。おそらく正確に言うと、主体iは原心であり、他者-iは原身体であろう。これが、即非結合して心身態(原心身態)を形成しているのである。そして、これが、本来の精神である。精身と言ってもいいくらいだろう。とまれ、心身=精神から、連続的同一性化が発生して、心身二元論が生まれるのである。(宗教観念で言うと、連続的同一性が悪魔であろう。例えば、ゾロアスター教の光のアフラ・マズダは心身・精神であり、闇のアンリ・マンユが連続的同一性である。) この連続的同一性により心身二元論が発生し、この心は物質的心であり、身体も、当然、物質的身体である。つまり、根源の心身・精神が否定・排除・隠蔽されているのである。 では、いったい、このとき、現象とは何なのであろうか。現象化を連続的同一性化と、これまで見たのであるが。現象化とは、同一性化と言えるだろう。イデアから、個体・個物(同一性)が発現するのだから。しかしながら、連続的同一性化と差異的同一性化があるのである。前者が物質的個体であり、後者が精神的個体である。そう、自然は、両者を産出すると言えよう。闇の個体と光の個体を産み出すと言えるだろう。−1と+1である。だから、自然は二重であると言えよう。物質的自然と精神的自然である。シェイクスピアの『リア王』で言えば、リア王の長女・次女ゴネリルとリーガンの自然と末娘コーディリアの自然である。これは一対であると言える。悪と善は一対である。暴力と調和、戦争と平和は一対であると言えるだろう。だから、この点では、ヘラクレイトスの対立と調和の一致の極性思考は正しいと言えよう。闇の自然があり、光の自然があるのである。私が先に美しいと言った、晴れた日の、海に近い川土手の木立のある家の光景であるが、その《光》は、後者であろう。つまり、精神的自然をそこに見いだしていることになるだろう。差異が共振している自然の風景なのである。そう、セザンヌの有名なリンゴの静物画も、差異共振シナジーを表現しているだろう。だから、至高美なのである。 結局、自然は二面があるのであり、ジキルとハイドであると言えるだろう(もっと、細分化すれば、多重性である)。ユング/ヘッセのアブラクサス(善悪二重神)である。キリスト教は、悪を認めないようにしてきた。それは、善の欠如であると見ようとしたのである。 また、近代合理主義は、連続的同一性・闇の自然に理性を見いだして、差異的同一性・光/精神の自然を否定してきたのである。つまり、物質的合理性のみを認めて、精神的合理性を排除してきたのである。唯物合理主義である。闇の合理主義、悪魔の合理主義である。 この自然の二面性について、さらに精査しよう。同一性化は、連続的同一性化と差異的同一性があり、自然は、両者を発現したと言えるだろう。思うに、ここが、ジェンダー・性差と関係するのではないだろうか。連続的同一性化とは男性化であり、差異的同一性化とは女性化ではないだろうか。戦争と平和である。混乱を避ける為に、連続的同一性化を原雄化、差異的同一性化を原雌化と呼ぼう。つまり、自然は、この対を発現すると言えるだろう。これが、単性生殖や処女生殖で意味されていることではないだろうか。自然は、根源的に単性生殖であろう。そして、それが、対の同一性を形成すると言えるだろう。つまり、自然は、連続的同一性・原雄性と差異的同一性・原雌性の対性・極性を発生させるのであり、これが後に分化して、雄・男性と雌・女性になったのではないだろうか。しかし、根源は両極・対極性である。陰陽性である。そう、『老子』では玄牝である。神話で双子の神話や兄弟の神話(ロムスとレムノス、カインとアベル、山幸と海幸、等々)が多くあるのは、この極性の反映であろう。 とまれ、太古においては、極性バランスがあったと考えられるのである。それが、神話では、女神の神話で表現されているものだろう(シュメール神話、クレタ神話、女媧・伏儀の神話、イザナミ・イザナギの神話、等々)。そう、闇と光のバランスが取れていたと考えられるのである。思うに、女性の方が、男性よりも、このバランスが取れていたと思われるのである。男性は、やはり、連続的同一性・闇・暴力・物質へ傾斜しているのであり、狩猟に向いていたであろう。そして、智慧・叡知は、女性のものであったであろう(魔女、巫女、等々)。つまり、ソフィア(智慧)は、女性形であるからである。 しかし、人類史において、このバランスが崩れて、連続的同一性が特化される時代が来たのである。父権制である。また、一神教である。国家である。これをどう見るのかが、決定的ポイントである。つまり、極性バランスが崩れるという力学が発生したのである。思うに、これは、自然の二元化の徹底化であろう。連続的同一性と差異的同一性の極性から二項対立・二元論へと徹底化したと見るのが正しいだろう。分極化から分化である。即非から二元論へである。東洋から西洋へである。 この二元論的徹底化であるが、この根因・起因は何なのだろうか。私はやはり、第二段階ないし第二回目の1/4回転を仮定したくなるのである。第一段階ないし第一回目の1/4回転で、零度の様相が発生するが、これが、差異共振シナジー様相を形成したと思うのである。そして、これが、プラスとマイナスの均衡を形成したと思うのである。つまり、陰陽性である。即非性である。しかし、第二段階・第二回目の1/4回転(i^2)で−1となるが、これが、連続的同一性の志向性を発生させたのではないだろうか。そして、これこそ、父権・一神教・国家化だと思えるのである。極性思考が破壊・解体されて、二項対立・二元論となったのである。 この考えをさらに展開すると、第三段階・第三回目の1/4回転(i^3)が生起して、新たな零度が発生するだろう。これは、新たな差異共振シナジー様相の発生と言えるだろう。これは、父権制・一神教・国家の崩壊であろう。そして、これは、新しい母権制・多神教・共振政体(連合という言葉は語弊があるので使用しない)の発生であろう。 このようにガウス平面での1/4回転力学を想定すると、うまく説明がつくと考えられるのである。 では、このガウス平面(イデア・現象界)1/4回転論理で、近代主義とトランス・モダンを見るとどういうことになるだろうか。やはり、プロト・モダン、ルネサンスを考えなくてはならないだろう。これは、本来、新たな差異共振シナジーの時代の発現だと思うのである。だから、第三段階・第三回目の1/4回転による零度差異共振シナジーのエポックと考えられるのである。しかしながら、西欧ないし欧米において、連続的同一性化が強化・特化されてしまったのである。近代合理主義、近代的自我、唯物科学・技術・産業の発展である。この差異共振シナジーの歪曲・捩じ曲げをどう見たらいいのだろうか。思うに、これは、一種反動的進展と見るべきだと思うのである。差異の発動がルネサンスで起こった(正確に言うと、中世から個の志向性が欧州では生じていたのである。12世紀ルネサンスもあるのである。また、toxandoria氏がドゥンス・スコトゥスの個の哲学を述べている。)のであるが、すぐに、キリスト教的な、父権的な反動が起こり、近代主義という反動が勃発したのだと思う。そう、近代主義とは、プロト・モダンの差異主義に対する連続的同一性志向による反動であると考えられるのである。反動であるからこそ、非合理・暴力・狂気的なのである。西欧・欧米の理不尽な帝国主義、植民地主義、世界大戦等々を見よ(現代のイラク戦争が最たるものであるが)。また、だから、その帰結であると考えられる現代日本の近代主義の連続的同一性自我の狂気があると言えるだろう。 今日、多極化路線であるが、これは、実は、近代主義という反動の崩壊であり、否定されてきたプロト・モダンの発展を意味すると言えるのである。私はトランス・モダンと呼んでいるが、これは、プロト・モダンの真の進展の意味をもつと考えられるのである。そう、toxandoria氏が新たなユマニスムに言及されていたが、それは、正鵠を射ているだろう。ルネサンスが回帰しているのである。そして、現代、ポスト・反動近代/トランス・モダンの時代であるが、これは、ネオ・ルネサンスの時代とも言えるのであるが、結局、意味されているのは、連続的同一性志向性の解体・瓦解であるということであり、父権制・一神教・国家の解体・崩壊であり、一切の近代主義の解体・崩壊・瓦解なのである。差異共振シナジー精神が顕在化したのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論は、この歴史の進展・進化と平行した理論であると言えるのである。 現代日本は、ここから見てわかるように、反動近代主義体制であり、大反動状態となっているのであり、亡国の危機なのである。差異共振シナジー/プラトニック・シナジイー理論路線へと至急に切り替える必要があるのである。 差異共振シナジー様相化という世界進化、世界相転移の様態に、地球・宇宙/コスモスはあると言えるのだろう。英語では、様変わりをsea changeというが、これは、cosmos changeないしparadigm changeである。 #
by antares11131954
| 2007-01-04 07:50
| イデア界的コスモス人類史
精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立
ここでは、主に、本テーマの光について検討したい。 先の考察(精神と物質 4)から、連続エネルギーが連続的認識と物質化をもたらすと言えるだろう。人間以外の存在は、差異共振シナジー性が未分化(未成熟)であると仮説したのである。 では、光をどう把捉したらいいだろうか。ここで、一つの作業仮説を立てて思考実験したい。光は、連続化しないという作業仮説である。つまり、光は、差異共振シナジー様相のまま、剥き出しであるということである。つまり、光においては、共振空間、虚次元空間そのままであるということである。つまり、永遠空間のままであるということである。ここには、本来、現象界の連続時空間の尺度は適用できないはずである。しかし、人間の知覚・認識・観測装置は、連続的同一性形式である(カントの超越論的形式)。ここに光を観測するときの根本・原理的矛盾があると言えるだろう。無限速度であるものを、有限連続時空間形式・尺度で観測するとは、完全な齟齬があるのである。これは、結局、結局、唯物科学の問題・限界である。 とまれ、光の観測に関する脱近代科学(トランス・モダン・サイエンス)の第一歩は、当然、アインシュタインの相対性理論である。光速度一定とは、結局、有限時空連続態の固定枠から見た無限速度の光の速度ではないのか。マイケルソン&モーレーの実験は、エーテルを否定したのである。つまり、連続的媒体の否定である。とりあえず、そういうこととしよう。 さらに、量子力学になるとこのことがさらに明瞭になると考えられるのである。光は差異共振シナジー様相ないし事象である(作業仮説)。ここには、差異とその零度共振シナジーが成立しているのである。それを、連続的時空間的に観測すると、粒子と波動の二重性をもつということになるのである。あるいは、両者の相補性を説くのである。また、非局所性が成立するのである。 粒子について言えば、それは、唯物的アトム主義から発生していると言えるだろう。そして、波動は、粒子の振動ということで考えているのだろう。つまり、唯物科学観に拠るのである。しかるに、差異共振シナジー様相が量子の真相であると作業仮説から敷延できるのである。ここは、きわめて重要なポイントで、両者を絶対に混同してはならないことをいくら強調しても強調し過ぎることはないだろう。差異共振シナジー様相とはイデア様相であり、量子とは、それを物質科学から観測した像、連続的同一性像に過ぎないということである。 ということで、差異共振シナジー様相i*(-i)における差異を物質化して、粒子ないし微粒子としているのであり、シナジー様相を物質化して、波動として観測していると考えられるのである。しかし、差異共振シナジー様相であるから、差異とシナジー相は分離できないない不可分なものなのである。即非態である。相補性とは、この即非態を物質科学的に説明する概念であると言えるだろう。また、非局所性であるが、それは、当然ながら、差異共振シナジー様相の無限空間を指していると考えられるのである。 以上簡単であるが、ポスト唯物科学、ポスト相対性理論、ポスト量子力学、トランス・モダン・サイエンスとして、プラトニック・シナジー・サイエンスPlatonic Synergy Scienceが成立すると考えられるのである。 そう、私が先に、心眼で捉えた光は、即非態であると言ったが、それが、この論考により、解明されたと言えよう。光は、即非態・即非相として剥き出しであるということである。太陽光即お天道様即大日如来即阿弥陀如来即天照即アポロ即アフラ・マズダである。 では、ニーチェが唱えたディオニュソスとアポロとはどう捉えたらいいのだろうか。そう、同じものであろう。差異共振シナジーによる差異的同一性がアポロで、シナジー様態がディオニュソスだろう。そして、これは、両者でコスモスである。そう、D.H.ロレンス等、多くの作家、芸術家、詩人が説いたコスモスとは、このアポロ且つディオニュソスとしての差異共振シナジー様相のことであろう。光の「浄土」である。古代人、中世人、ルネサンス人等は、まったく正しかったのである。近代人が狂っているのである。 _______________________________________ 精神と物質 4:光、認識、現象・物質化とは何か この問題は、プラトニック・シナジー理論の根幹の一つであろう。おそらく、これから、思考実験が何度も繰り返されることだろうが、近代的自我の検討の反復のようなことはないことを望んでいる(おそらく、そんなことはないだろう。近代的自我、近代合理主義の解明は、もっとも難しかったものであると考えられる。) 先ず、認識と連続的同一性と物質化について整理しよう。私の仮説は、認識即存在である。志向性が存在を形成するというものである。これは、フッサール現象学の中に、ハイデガーの存在論を包摂させていると言えるだろう。 だから、連続的同一性志向性は、連続的現象・存在の形成である。この連続現象体は、当然、心身をもっている。つまり、知覚をもち、身体をもっている。これは、当然、人間だけでなく、動物・植物にも当てはまるし、また、奇妙に、怪しく感じられるかもしれないが、鉱物・無機物にも、当てはまると思える。つまり、鉱物・無機物にも、なんらかの知覚と身体を想定するのである。(これについては、別のところで検討したい。) シロクマは、シロクマの知覚をもち、身体をもっているし、スズメは、スズメのそれらをもっている。これは、異論がないだろう。これらの知覚/身体は、連続的知覚/身体と呼ぶことができるだろう。 問題は、即非態とこの連続的知覚/身体との関係である。これまで、人間以外の動物・植物(・鉱物)には、即非態・差異共振シナジー態DRSを認めなかったが、ここで、考え直したい。一般的に、動物には、「母性本能」が強いと言えるだろうし、正しくは、言わば、「親(おや)性本能」・「母父性本能?」が強いのだろう。これをどう見るかである。これは、差異共振シナジー動態ではないのか。今、言えることは、それは、差異共振シナジー動態に何らかの関係をもっているということであろう。しかし、そのものとは言えないだろう。何故なら、差異共振シナジー様相とは、認識、自己認識を意味するからである。動物には、自己認識はなく、ただ、本能として、差異共振シナジー様相に似た結果が発現するということのように思えるのである。そう、思うに、動物の場合は、差異共振シナジー様相まではいかなくて、主客と他者とが未分化のように考えられるのである。猫は、主客と他者とが未分化であると思うのである。だから、動物には、差異共振シナジー様相は存在しないと考えることができるだろう。ただ、未分化的な相関的な様相はあるとは言えるのである。(思うに、ペットを飼うというのは、疑似差異共振シナジー様態を味わっているのではないだろうか。) では、この未分化な主客連続化の様態をどう定式化するのか。内在的連続化の記号を~とすれば、i~(-i)と記述できるのではないだろうか。暫定的にそうしておきたい。 では、人間の場合について、本テーマを追求して行こう。問題は、即非態と連続的同一性態との関係構造である。(明瞭にするため、即非態を共振態ないしシナジー態、そして、連続的同一性態を連続態ないし同一性態と呼んでもいいだろう。態の替わりに、相でもいいだろう。共振相・シナジー相、連続相・同一性相である。) 人間が出生して、現象・物質化するとき、共振相が、連続相に転化する。虚次元・虚軸から実次元・実軸へと変換する。このとき、帰結的には(終局態・エンテレケイア)、連続態・同一性態としての人間が発生する。しかし、実際のところ、共振相が完全に連続相になったのではなくて、生成過程にあると考えられるのである。つまり、連続相への生成過程としての人間整形である。端的に言えば、言語獲得である。つまり、出生後、新生児は、言葉を憶えることになるのである。勿論、それ以前に、身体知覚経験が研ぎ澄まされるのであるが。 結局、出生後、連続相への生成過程であるから、共振相/連続相の二重構成をもつと言えよう。あるいは、共振相⇒連続相のプロセスである。これは、連続的同一性志向性と呼んだものである。そして、成長し、言語獲得するときに、このプロセスは、共振相を否定して、連続相中心・優勢になると考えられるのである。つまり、主体/他者の関係で言うと、主体が他者を連続化して、他者を支配しようとする傾斜である。そして、これが、自我形成である。そして、この帰結として近代的自我が成立する。 問題は、この連続相形成過程における共振相の意味合いである。当然、連続相形成過程においては、共振相は、連続エネルギーへと転換している。つまり、共振相潜在態(デュナミス)が連続相現実態(エネルゲイア)へと転換しているのである。だから、共振相自体としては、認識されずに、連続相・同一性相認識・自我認識を形成されると言える。 では、問題は、共振相は、連続エネルギーへの転換で消滅する、又は、消費されるのかということである。ここで、作業仮説するのであるが、共振相は原則として零度であるから、連続エネルギーをプラスのエネルギーとすると、保存則的には、マイナスのエネルギーが作動するはずである。これは、比喩的には、潮の満ち引きのようなものであろう。つまり、連続相化に対して、脱連続相化のエネルギーが作用すると思われるのである。図式化すれば、 主体→他者、i→-i(→は連続相化)から、主体←他者、i←-iへの「相転移」ではないだろうか。これは、これまで、他者の同一性化と見たが、そうではなくて、共振相への回帰と考えられるのである。(先に、優越/劣等の二項対立について述べたが、それは、連続相化で十分説明がつくだろう。即ち、主体→他者の連続相化とは、他者を同一性化することであり、そこには、他者の力を受容するので、感受性的には、優劣感情が発生すると言えるだろう。)つまり、連続エネルギーのカウンターとして、脱連続・共振エネルギーが発動するのではないかと考えられるのである。これを仮説として、検討を進めよう。 だから、結局、人間の認識においては、連続相・同一性認識と共振相・差異認識が併存することになると言えよう。そう、より正しく言えば、自然発生的には、両者が未分化として、あるいは、連続態として、併存している、ないし、混合していると考えられるのである。なぜ、未分化・連続態かと言うと、脱連続・共振エネルギー(差異エネルギー)とは、連続相・同一性認識の内に、内部に、発生するからだと考えられるのである。ここは、正に、不連続的差異論のブレークスルーの領域である。連続相・同一性相認識において、脱連続・共振相・差異認識が発生するので、両者が、未分化・連続化しているのである。言い換えると、両者が弁証法関係・否定関係にあるのである。そして、フランスのポスト・モダン、乃至、ポスト構造主義とは、この両者の未分化・連続態から脱出できなかったと言えるのである(後期デリダは除く)。つまり、差異の連続化、連続的差異=微分をここに仮説してしまうのである。また、大澤真幸氏のアイロニカルな没入もこの未分化・連続態で説明がつくのである。ここにあるのは、反動形式なのである。連続・同一性相という構造の彼岸は、差異ではなくて、未分化・混淆界であったのである。即ち、メディア/現象境界である。これが、ポスト・モダンの領域なのである。 さて、ということで、脱連続・共振エネルギーが発動するが、それが、連続相・同一性相認識と未分化・連続態を形成するというポスト・モダンの様相を確認した。ここで、先に進む前に、近代的自我の反動様態について触れておくと、それは、ポスト・モダン様態になったときの反動態であると考えられるのである。連続相・同一性相・自我認識が中心化して、脱連続・共振エネルギーを否定・排除・隠蔽するのである。これは、暴力且つ狂気なのである。精神病化である。今日の自己愛性人格障害は、これで説明がつくだろうし、また、パラノイア化や統合失調症(「精神分裂症」)もこれで、おおよそ、説明がつくだろう。 ここで、不連続的差異論のブレークスルーに関係するが、それは、以上の未分化・連続態を切断して、共振エネルギーを不連続化し、独立させたのである。連続相・同一性相とは不連続な、差異共振シナジー様相、差異共振シナジー相認識、即非認識、共振認識を確認したのである。これはどういう力学なのだろうか。完全な脱連続化である。そう、内在的超越化である。虚次元・虚空間化である。そして、それを明日野氏は、卓越的に、i*(-i)⇒+1と簡潔簡明に数式化したのである。これは、差異的同一性の公式とも言えるのである。そして、これこそ、差異共振シナジー様相と連続的同一性様態との共生・棲み分けである。ここには、差異共振シナジー的合理性、連続的同一性合理性の共創・共存があるのである。共生・共立である。簡単に言えば、差異理性と同一性理性との不連続な共立である。(カントは、この内在的超越的差異理性を捉えることができずに、物自体としたと言えよう。あるいは、実践理性としたのである。フッサールはこれを志向性や間主観性として把捉したと言えよう。) では、これはいったい何を意味するのか。零度への回帰、永遠回帰、内在的超越界への回帰とは何を意味するのか。結果的には、連続化の終焉である。自我、近代的自我の終焉である。近代合理主義の終焉である。モダンの終焉である。ポスト・モダンの超克でもあるトランス・モダンの開始である。人類のリセットである。これまで、宗教や神秘主義の領域であったものが、合理化されたのである。というか、宗教や神秘主義の純粋化と言ってもいいのである。これまで、それらは、連続態によって、反動化していたのであるから、プラトニック・シナジー理論によって、純粋化したのである。超宗教・超神秘主義でもあるのである。(これは、諸宗教の反動暴力性を解除して、共生的宗教へと変容させると考えられるのである。) そう、これは、やはり、一つのサイクルの終焉と見るべきではないのか。即非態から連続エネルギーが発生して、また、脱連続エネルギーが発生する。その終局が、零度への回帰である。私は、これをずっと西洋文明の終焉と見ているのである。あるいは、一神教・父権的文明の終焉と見ているのである。そういうことだと思う。エネルギー力学からそう言えると思うのである。 さて、序論的部分を含み説明が長くなったので、本テーマの一つの光については別稿で論じたい。 #
by antares11131954
| 2007-01-03 02:31
| 精神と物質
フィクションで、私の「暗殺リスト」があるが、その中には、たくさんの人間が入ることになる。否、人間だけでなく、神も入る。この世、この人間界を造った神は暗殺するに値するだろう。狂気のリア王が、恩知らずの娘を生んだ自然の鋳型を破壊してしまえ、絶叫するが、その破壊的衝動は、理解できるものである。愚劣な人間を造った神は破壊するに値するだろう。
とまれ、この思想は、まったく新しくなく、グノーシス主義である。それは、この世を邪悪な神が造ったと考えたのである。グノーシス主義が発生するときは、当然ながら、末世、「カリ・ユガ」である。思えば、聖書にも、創世記にも、邪悪な人間を滅ぼすために、大洪水を起こしたという有名なノアの箱船の話がある。人間が駄目になるのは、神の原因というよりは、原点にあった内的ヴィジョンが衰えるためであろう。内的ヴィジョンとは、エネルギーをもつヴィジョンであるから、創造的である。だから、内的創造エネルゲイア・ヴィジョンである。しかし、このエネルギーは、単に物質エネルギーではなくて、イデア的エネルギーである。造語して、イデルゲイア、イデルジー等を考えよう。もっとも、メディア的エネルギーだから、メデルゲイア、メデルジーでもいい。 とまれ、この根源的ヴィジョネルギー(ヴィジョン+エネルギー)の喪失が、末世、「カリ・ユガ」を生むと言えるだろう。つまり、これは、神のエネルギーの新陳代謝の問題のように思える。最初は、神のエネルギーは新鮮であり、人間は、その神的ヴィジョンに基づいて、社会・文化等を構築したと考えられる。しかし、この神のエネルギーが衰えるにつれて、社会は堕落し、腐敗するのである。思うに、その末世において、新たな神のエネルギーが発すると言えるだろう。おそらく、ここには、力学があるのである。神のエネルギー力学があるのである。神のダイナミクスである。今日、世界、日本を見ると、これまで、文明を形成した根源的ヴィジョンが衰退・老衰して、カオスとなっている。新しいヴィジョン、新しい神的ヴィジョンが必要なのである。 もっとも、力学であるから、科学的に説明できなくてはならない。神的科学、神のサイエンスである。これに関しては、これまで、論じてきたが、簡単に言えば、西洋文明の神のヴィジョンが衰退したということだろう。つまり、キリスト教の神のヴィジョンがもう、衰退したということである。というか、とっくに衰退したのである。キリスト教の理性と古代ギリシアの理性が結合して、近代理性が生まれた。しかし、近代理性は、近代合理主義となり、いったんは、薔薇色の未来を約束したが、今日、不信の状態となっているのである。 理論的には、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたように、東西文明は、統一されるのである。西洋は、内在的に否定された東洋を求めてきたし、東洋は、近代西洋文明への不信から、東西超克を希求してきて、東西が一致したのである。 西洋文明の原理である二項対立・優劣二元論は、連続的同一性の原理であり、それは、差異を徹底的に排除するものである。この差異否定のヴィジョンが西洋文明の原動力であったと言えよう。それは、一神教のヴィジョンである。唯一の神以外の神(差異、他者)は認められないという発想である。この一神教ヴィジョンが、今日、行き詰まり、衰退したのである。 この連続的同一性の原理であるが、それは、思うに、不連続的差異論で言うメディア界の必然性によって発生すると、今、私は考えているのである。即ち、メディア界は、本来、差異共振シナジー様態であるが、それが、内界から外界へと志向すると考えられるのである。喩えて言えば、種子の中の胚芽が、外部へと展開・発展する様態を考えるといいだろう。英語で言えば、inからoutへの転化である。メディア界が内部であるとすれば、それが、外部化するのが、連続的同一性化である。そして、これは、そのまま、現象化であると考えられるのである。つまり、今の時点では、連続的同一性化=現象化である。しかしながら、要注意なのは、この内部から外部という現象化事象は、単に同一次元で生起するのではないということである。この点が、おそらく、最高最大に注意すべきポイントである。つまり、内部から外部への転化とは、次元変換でもあるということである。プラトニック・シナジー理論は、これが、虚軸から実軸への転換であると明らかにしたのである。虚数から実数への変換なのである。虚次元から実次元への変換なのである。これを、私は、内在超越性という視点で述べているのである。一番、分かり易いのは、ガウス平面で、実軸と虚軸の直交座標を考えることである。だから、精緻に言うならば、内部は、超越的内部、超越的内界ということになるだろう。 だから、連続的同一性化とは、超越的内界から時空間的外界への転化ということになるだろう。この時のエネルギーが、つまり、連続的同一性のエネルギーが、現象界の物質エネルギーではないだろうか。先の考察から言えば、否定的志向性である。⇒(-)である。これは、差異・他者を否定するエネルギーである。そして、心身二元論が生起するのである。心と身体の二元論である。そして、一神教、ユダヤ/キリスト教(イスラム教の一部)は、この現象化の終局と言えるだろう。 ところで、遺伝子とは、この連続的同一性の多種多様な原型のことではないだろうか。これは、巨視的に見れば、生物に限らないだろう。鉱物の原型があるのであり、それも鉱物の遺伝子と言えると思うのである。結局、形相の問題である。形質も形相に入るだろう。つまり、超越的内界に、「遺伝子」・原型・形相があるのであり、それが、否定エネルギーの対発生によって、現象様態化するのではないだろうか。つまり、超越的内界における対・連続的同一性エネルギーの発生が現象化を施行するということである。そして、帰結的に一神教が生まれるのである。【では、多神教・自然宗教の発生は、どういうことなのか考える必要があるだろう。多神教は、一神教の発生させる基盤であるように思えるのである。イシス・オシリス神話(神話もかつては、宗教であったと考えられる)から、太陽崇拝が生まれて、ファラオー崇拝が発生したと考えられるのであるし、また、古代オリエントの神話にも、同様なことが確認できるだろう。】 では、先にも考察したが、脱現象化、差異への回帰、トランス・モダンの力学の発生原因は、どこにあるのかということになるだろう。 ここでは、連続的同一性・対エネルギーの発生領域である超越的内界空間次元を考えればいいだろう。ここは、零度共振領域である。ここには、零度のエネルギーがあると考えられるのである。この零度のエネルギーが、対の連続的同一性エネルギーへと転化するのであり、これが、言わば、エネルゲイアと言えるだろう。零度のエネルギーとは、デュナミス(可能態)と言えるのではないだろうか。 さて、発生した連続的同一性の対エネルギーであるが、当然、それは、消耗して、消滅するだろう。そう、現象界に見られる、生成消滅(生死・死生)は、このエネルギーの生成消滅によると言えるのではないだろうか。すると、理論的には、当然、再び、零度に回帰するだろう。このゼロ度回帰が、差異共振シナジー様相の形成を意味するのではないのか。 思うに、連続的同一性エネルギーが作用とすると、それに対する反作用があるだろう。それが、差異エネルギーではないだろうか。これは、単純な力学ではないだろうか。連続的同一性エネルギーが消費される。すると、否定・排除・隠蔽・抑圧されていて差異のエネルギーが発動するということではないのか。数式で考えよう。 i*(-i)が超越的内界の差異共振シナジー様相である。そして、i→(-)(-i)⇒−1となる。これが、連続的同一性の現象化である。ここで、*を零度ないし零度差異共振様相と考えると、*が→(-)となるのが、連続的同一性のエネルギーないし否定志向性である。それに対して、当然、反作用的に、→ (+)の動態が発生すると考えられるのではないだろうか。この→(+)は、肯定的志向性、即ち、差異エネルギーであり、結果として、差異共振シナジー事象を形成するのではないか。 では、もしそうならば、どうして、最初に、→(-)の否定的志向性が発生し、次に、→(+)の肯定志向性が発生するのだろうかという疑問に対する解明が必要である。思うに、これは、内界から外界への転換力学の必然ではないだろうか。内界の様相を否定して、外界が発生するのではないだろうか。i*(-i) という内界の様相に対して、→(-)という否定的志向性が発生して、他者・差異を否定して、連続的同一性の外界・現象・物質が発生するということではないだろうか。内界を否定しなければ、外界である現象は発現しないと考えられるのである。 では、さらに、どうして、外界・現象化する必要があるのか、ということになる。永遠・無限の世界からどうして、有限の世界に移行する必要があるのかである。というか、有限化の力学の問題である。 ここで、フッサールの志向性の理論を敷延的に援用して考察しよう。主体から他者への志向性とは、実際は、主体の連続的同一性の投影であるということである。(これが、フッサール現象学の一つの側面である。)結局、志向性においては、他者・差異は、他者・差異自体としては、認識されずに、主体の連続的同一性のおいて認識されるということである(参照・カントの超越論的形式と物自体)。そして、これが、現象化である。そして、自我(無明)の発生である。自然は、思うに、人間を愚者fool(タロット・カードで、ゼロがフールなのは、意味深長である)として創造したことになるのである。知的盲目として人間を創造したのである。(おそらく、これは、他の生物にも言えそうである。ただし、言語を使用している分、人間の方が、さらに愚者・痴愚者である。ホモ・サピエンスという言葉は、恥ずかしいほどの傲りの命名であろう。) とまれ、自然的志向性は、連続的同一性の志向性であり、他者・差異は否定されるのである。そう、ここで、有名なプラトンの洞窟の喩えを想起してもいいだろう。洞窟のスクリーンに投影される影像は、連続的同一性としての現象と考えられる。これは、光や視覚の問題でもあろう。とまれ、自然的志向性は、連続的同一性志向性である。だから、初めから、倒錯していることになるだろう。つまり、他者・差異の外界的認識は、倒錯しているのである。自然の、一種、悪意、意地悪さではないだろうか。自然状態(フッサールの自然的態度)では、自然の真相は認識できないのである。それは、いいとしよう。 では、ここで、先の問題の差異エネルギーの発生について考察しよう。自然的志向性は、結局、連続的同一性エネルギーであり、差異を否定した。しかし、力学的には、差異が反発して、差異のエネルギーが発動するはずである。しかし、問題は、差異は、連続的同一性のエネルギーを帯びるのではないかということである。先には、ソのように考えたが、ここでは、発想を変えて、思考実験したい。 思うに、超越的内界において、主体と他者が零度共振しているのである。つまり、主体のエネルギーと他者のエネルギーとの均衡が取れて、零度になっているのではないだろうか。しかるに、主体のエネルギーが発動して、現象化が起こる。しかし、そのときは、他者のエネルギーが隠蔽されることになるだろう。しかしながら、主体のエネルギーが消費されれば、当然、隠蔽された他者のエネルギーが発動されるだろう。これが、差異エネルギーではないのか。すると、主体の連続的同一性エネルギーが、連続的同一性構造の形成に機能したとすれば、他者の差異エネルギーは、脱構造エネルギーではないだろうか。主体は、他者の差異エネルギーを受容することで、新たに、差異共振シナジー様相を構築するのではないだろうか。そして、これが、脱近代、トランス・モダンの事象を意味するのではないのか。そう、仏教が初めの脱近代、トランス・モダン理論であろう。そして、ほぼ同時代のプラトン哲学もそうであろう。悟りとは、この差異エネルギーの肯定である。つまり、不連続な差異エネルギーの肯定である。釈迦牟尼やプラトンは、内界に視線を遣ることで、瞑想することで、あるいは、秘儀参入すること(参照:エレウシスの秘儀)で、これを成就したのだろう。 そうならば、自然は、親切ということになるだろう。最初は、自然は、意地悪であるが、その後は、親切になると言えよう。ただし、自然の事象を正に、自然(じねん)に受け取る必要があるのである。つまり、肯定的に受容する必要があるのである。後にこれを理論化したのは、スピノザであろう。能動的観念とは、この自然の肯定のことであろう。 では、差異エネルギーとは何なのであろうか。あるいは、どうして、即非性や共感性が発生するのだろうか。思うに、差異エネルギーとは、逆志向性なのではないのか。それで、原点にもどるのではないだろうか。最初、主体は、他者を志向したが、それは、連続的同一性であった。その後、他者のエネルギー、差異エネルギーが発動する。そのとき、他者から主体への志向性がある。これは、主体への回帰である。主体への回帰とは、差異共振シナジー界への回帰ではないか。零度への回帰ではないのか。そう、考えてみれば、差異エネルギー、逆志向性とは、主体にとっては、差異の受容である。連続的同一性を+のエネルギーとすれば、差異は−のエネルギーである。そして、プラスマイナス=零度を帰結するのではないのか。−のエネルギーは、力であり、差異共振シナジーへと主体を駆動させるのはないだろうか。 いちおう、以上の思考実験を作業仮説して結論すると、自然は、志向性を確かにもつのであるが、それは、初めは、主体から他者への志向性であり、次に、他者から主体への志向性へと交替する力学があるということになる。簡単に言えば、連続化のエネルギーが最初にあり、次に、相補的に、脱連続化のエネルギーが発生して、零度に回帰するということである。 では、この順番は何を意味するのか。この順番の力学は何か、となる。これは、自然志向性力学としか言い様がないのではないだろうか。連続から脱連続へという自然力学である。しかし、何故、連続化するのか、ということに答えていないだろう。否、答えている。それは、志向性とは、最初が、連続的志向性であるということである。主体から他者への志向性とは、連続的志向性であるということである。 #
by antares11131954
| 2006-12-25 01:06
| PLATONIC SYNERGY
二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン
テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係 先に、陽主体iによる連続的同一性の優越意識認識は、基盤として、陰他者-iにおける劣等意識があるというようなことを簡単に触れたが、この点について、詳論したい。 問題は、受動的感覚のことである。また、感覚と感情と意識と認識と知性のことである。ここでは、受動的感覚を考えたい。先ず、心身を根源に置く必要がある。さらに言えば、心身より先に、差異を原根源に考える必要があるだろう。差異とは、この場合、即非関係にある差異である。即非差異ないし対極差異と呼んでおこう。つまり、i*(-i)が原根源にあるということである。自己やその倒錯である自我の起源はこれであると考えられる。 では、この原自己ないし元自己(元己、元個、原己、原個)の進展のことを考えると、現象界において、この原自己が剥き出しで置かれると考えられる。誕生以前は、子宮内で、差異共振様相であったと考えられる。胎児と母体との差異共振様相である。両者、個でありつつ、同時に共振しているのである。両者の即非・対極関係があるということである。 しかし、出生後は、新生児は、子宮内とは全く異なる環境に置かれる。子宮内を、メディア環境と呼べるならば、出生後の環境は、当然、現象環境である。この現象環境において、新生児は、メディア環境においてと同様に、最初振舞うだろう。つまり、有り体に言えば、新生児の感覚意識する現象界とは、メディア環境的現象界、あるいは、差異共振的現象界となるのである。そして、これが、「コスモス」である。メディア環境における「コスモス」と現象界における「コスモス」があるのである。前者を即自態とすれば、後者は対自態である。(思うに、空海の両界曼荼羅であるが、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅とは後者ではないのか。後で、検討。) しかしながら、当然、現象界は、メディア環境ではありえないのであり、新生児は、ここで、苦を感じることになるのである。スピノザ的に言えば、悲しみを覚えるのである。これは、イデア力学(イデア科学)的にはどういうことなのであろうか。それは、簡単に考えれば、差異共振性の不成立であり、そのために、原初・無垢の歓喜が、経験の悲しみとなるのであるが、この差異共振性の不成立とは、差異共振性の否定態と言えるのではないだろうか。差異共振性が、肯定態とするならば、その不成立とは、否定態と言えるだろう。差異共振性i*(-i)⇒+1で、この+を肯定態とするならば、不成立は、-1の様態であると言えるだろう。つまり、-{i*(-i)}⇒-1と考えられるのではないだろうか。これは、当然、-(i)*(-i) か、又は、i*-(-i) のことと展開できるだろう。前者が、宗教ないし信仰的様態であり、後者が、自我様態であろう。(思うに、史的に見ると、中世までは、前者の様態が続き、近代は、それが、いわば、反転して、後者の様態になったと言えるのではないだろうか。) とまれ、この二つの否定的様態が、進展した現象的様態となるのだろう。つまり、出生後の原初においては、子宮内におけるメディア環境を継続した様態であるが、その後の「経験」によって、新生児は、否定的様態を獲得すると言えるだろう。問題は、この否定的様態への対処法である。このことに関して、確認しておくべき事象は、言語獲得の意義である。ここでは、二通りの言語獲得があると考えられるのである。一つは、差異共振的歓喜ないし共感的言語形成である。「わたし」と他者Aとは、一体である。しかし、同時に、「わたし」は「わたし」であり、他者Aとは異なるのである。正に、即非様態の言語形成があると考えられるのである。他者Aは、「花」となるのである。他方、否定的様態における言語形成があるだろう。「わたし」の差異共振性を否定する対象に対する言語形成である。ここで、自然を考えよう。自然は、「わたし」の食べ物をもたらしてくれる。しかし、あるときは、自然は、無慈悲であり、食べ物を「わたし」に与えない。この場合、自然は、「わたし」にとり、快・不快の対象である。しかしながら、問題は、単純ではない。新生児にとり、自然は、本来、メディア環境である。「わたし」は自然と差異共振様相にあると言えよう。「わたし」と自然との即非・対極様相である。だから、食べ物に取得に関する快・不快の「弁証法」が、「わたし」を絶対的に支配することはないのである。 とまれ、問題は、言語形成ないし名付けの意義である。他者Xを「何か」Nと呼ぶとき、差異共振環境ならば、他者Xは、主体iにとて、差異共振的他者であり、他者の名前(言語)Nは、差異共振様相を指していることになるだろう。つまり、i*(-i)における-iとしての他者であり、他者の名前Nである。これは、差異共振言語と呼んでいいだろう。つまり、i*(-i)⇒+1の名・言である。+1を確定する言語である。おそらく、この言語がなければ、差異共振様態のままであり、認識には進まないだろう。そう、差異共振様態は、いわば、直観様相なのであり、それだけでは、知的認識にはならないと考えられる。差異共振性に言語を与えることで、+1の認識となると考えられるのである。だから、⇒は、言語構築性を意味していると言えるだろう。だから、+1とは、差異言語であると言えるだろう。 これに対して、否定様態の言語があるだろう。-1の言語である。これは、連続的同一性言語(簡単に、同一性言語)と呼べよう。 問題は、この同一性言語の力学である。二項対立言語の力学である。ライオンと鹿がいるとしよう。「わたし」にとり、ライオンは「強い」、鹿は「弱い」のである。後者を取って、食べ物にできるのである。狩りを行ない、鹿を仕留めて、「わたし」は勝利することができるのである。ここに強弱ないし優劣の観念の萌芽があるだろう。「わたし」はライオンに対しては弱いが、鹿に対しては強いのである。ラインに対しては、劣等であるが、鹿に対しては、優越するのである。ここにある意識様態の力学は何だろうか。もし、差異共振認識があれば、ライオンと鹿は、自然の両極であり、両者必要なものであり、強弱・優劣の差別は生じないだろう。鹿には、鹿の存在意義があるのである。あえて言えば、「弱い」、「劣等」には、それの積極的意義があるのである。 では、強弱・優劣の二項対立的価値観はどこから生まれるのだろうか。当然、差異共振的価値観の喪失後である。ライオンと鹿の両面に積極的意義を認める差異共振・共立的価値観の喪失後である。このためには、絶対的二元的区別の世界観が必要だろう。「わたし」と他者とが、絶対的に分離しているという世界観である。 とまれ、ここで、以前のアポリアにもどると言えよう。結局、差異共振様相を否定する事態とは何なのか、ということになるだろう。ここで、直観で考えよう。それは、差異共振様相を否定する事態とは、孤独である。あるいは、孤立無援の状態である。絶対的孤独である。これは、わかりやすい例をあげれば、飢え、飢渇であろう。自然は、「わたし」に食べ物を与えてくれない。植物は枯れ、雨は降らない。祈っても、食べ物が得られないのである。いわば、差異共振の神に見放された様態である。自然の神に見捨てられた様態である。「わたし」は「わたし」であり、絶対的な「わたし」である。思うに、ここにおいて、一神教が発生があるだろう。絶対的な「わたし」である神である。絶対的な「わたし」を保証する神である。それは、当然、自然を超越した神である。超越神である。否定様態だるから、「わたし」は悲しみの様態にある。つまり、ルサンチマンである。(ニーチェのキリスト教批判が正しいだろう。しかし、ニーチェ自身、旧約聖書を肯定しているので、分裂しているだろう。晩年の「力の意志」の思想は、分裂しているだろう。)ここには、反差異・連続的同一性となった自己即ち、自我があると言えるだろう。ルサンチマンの連続的同一性の主体があるのである。-1である。(ヤハウェとは、この否定様態の名前であろう。ラカンの父の名は、これではないのか。)ここにおいて、他者は否定されるしかないのである。「わたし」は絶対であり、他者は否定されるべきである。「わたし」は自然を超越した存在であり、他者に優越しているのである。これが、優越性の発生の原因であると考えられよう。つまり、絶対的超越性である。そして、これは、差異共振様相の否定態であり、実は、差異共振性を反転的に指示しているのである。つまり、メディア空間を指しているのである。 思うに、差異共振的現象性は、メディア空間と現象空間が未分化である。つまり、連続化しやすいと言えるだろう。メディア即現象空間だろう。つまり、内在空間である。連続的な差異の共存がここにはあるのである。(ベルクソン/ハイデガー/ドゥルーズ、等) しかし、絶対的孤独の絶対的自我によって、すべては、超越的同一性化されるのである。差異共振様相の否定としての超越的絶対的同一性である。-1である。ヤハウェである。ルサンチマンである。専制である。父権制である。 結局、絶対的孤独による絶対・超越的主体が、優劣的二元論、二項対立の発生であったと考えられるのである。 しかしながら、これは、差異共振様相の否定態であるから、当然、肯定態に変換しうるのである。否定態から肯定態への転換は、スピノザの能動的観念の発想、フッサール現象学、聖霊主義、仏教、他に見ることができるだろう。しかし、この力学は何か。この肯定力学とは何か。肯定回帰的力学とは何か。キリストは愛を説いたが、もう、愛ではないだろう。否定の否定である。「父」が、新たな「母」になることだろう。新たな差異共振。それは、再び、絶対的孤独から生まれるだろう。以前は、飢え・飢渇から発した。しかし、今度は、それではありえないだろう。近代科学・技術・産業とは、物質的飢渇を満たす方法ではあった。しかし、今や、それは、過飽和である。もっとも、ここで、根本的に考えれば、飢えや飢渇による否定とは、差異共振性に対する否定なのであり、いわば、裏返しの差異共振性なのである。つまり、連続的同一性とは、裏返しの差異共振性なのである。それが、西欧において、帰結的に、近代主義を生んだのであり、今日、ポスト近代主義の事態となっているが、それは、差異共振性への否定の原因であった物質的飢え・飢渇が克服された様態である。つまり、ポスト近代主義とは、差異共振様相を否定した物質的飢え・飢渇が解消された事態を意味しているのであり、それは、当然ながら、差異共振様相の回帰であり、ポスト連続的同一性、ポスト一神教を意味すると考えられるのである。物質的飢え・飢渇の解消は、否定性の解消であり、否定の否定で、肯定が回帰するのである。 #
by antares11131954
| 2006-12-21 00:54
| PLATONIC SYNERGY
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