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本件の問題を最近は追求しているが、既に解決済みと思っていたが、簡単には済まない。結局、Media Pointから差異が同一性へと転換するときの様相の問題である。
私はイタリア・ルネサンスが差異の発動であり、その後の差異の展開はプロテスタンティズムであると述べた。差異の発動とは、新たなMedia Pointの賦活であると考えられる。超越界=イデア界において、おそらく、新たな回転が生起して、Media Pointが新たに活性化したと考えられる。即ち、Media Point=i*(-i)において、A) i→-iとB) -i→iとが発動したと考えられる。この両面が混淆ないしは未分化様態であったのが、イタリア・ルネサンスであったと思われる。 私は先に、iが能動性ないしは父権性であり、-iが受動性ないしは母権性ではないかと提示した。これを作業仮説とするなら、Aは、能動性であり、Bは受動性である。そして、iには形相性、-iには質料性を考えると(これも作業仮説)、Aは能動的同一性の形成、Bは受動的身体性の形成を意味するのではないだろうか。 以上の作業仮説から、次に、プロテスタンティズムを考えると、それは、Aが主導的になったキリスト教であると考えられる。 問題は、A主導における神性とは何か、である。Media Pointにおける超越的エネルゲイアから、A主導性は駆動されていると考えられる。問題は、Media Pointの超越的エネルゲイア(以下、超越的エネルギー)は、差異共振・差異即非に拠るのであるから、プロテスタンティズムの神性のエネルギーも、それに拠ると考えられる。そう、これまで、私はプロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内包していると述べてきたが、ルネサンスの内包とは、この差異共振・差異即非を意味すると言えよう。 ということで、プロテスタンティズムはMedia Pointの超越的エネルギーに賦活・駆動されていると考えられる。しかしながら、問題は、A主導的であるということである。これは、差異を否定する同一性衝動であるから、プロテスタンティズムは、自己否定的に発展すると言えよう。差異共振エネルギーに駆動された同一性衝動である。 そして、近代の進展とともに、近代合理主義と結合して、根源のMedia Point=差異共振エネルギーを喪失していったと考えられる。いわば、プロテスタンティズム近代合理主義の形成である。そして、これに自由主義と民主主義が結合して、西洋近代主義が完成すると言えよう。 もっとも、自由とは起源的には、ルネサンスのMedia Pointから発しているし、民主主義は、起源的には、絶対王制に対するプロテスタンティズム的市民(資本家を含めた)の権利意識から発したと言えよう。つまり、民主主義は、キリスト教的であるということであり、これは、やはり、ルネサンスをベースにしたプロテスタンティズムの近代的自我意識に基づくと考えられる。 だから、簡潔に言えば、西洋近代主義はルネサンス/プロテスタンティズムと近代合理主義(近代科学・技術)の結合によると言えるだろう。 結局、根源のMedia Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーを近代主義は喪失していくのであるが、その換わりに、いわば、同一性的力動(力学)を強化していくと考えられる。 これはどういうことなのだろうか。これは、端的に、超越的エネルギーが、同一性エネルギーに転換するということだろう。同一性エネルギーとは、おそらく、物質エネルギーと言っていいのではないだろうか。というか、力である。物質的力に変換するのだと思う。能動的な力ないしは暴力、権力である。 では、この超越性から同一性への転換において、神性はどうなるのだろうか。そう、同一性への転換において、神性はどうなるのか。初期においては、 Media Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーが発動しているが、これが、同一性エネルギー=力へ転換するとは、基本的には、根源の神性を喪失するということになる。そして、これが、欧米近代化においって発生したことだろう。 しかしながら、根源の神性とは、Media Pointの超越的エネルギーのことである。そして、これは、確かに、同一性衝動へと転化したと言えよう。 だから、問題は、超越的エネルギーと同一性衝動の関係である。前者はすべて後者へと転化したということなのだろうか。それとも、後者においても、前者は残っているのであろうか。 ここでも直感で考えよう。つまり、根源の超越的エネルギーが、同一性力動に転化されるということは、基本的には、根源の超越的エネルギーは残っているのであるが、それが変質する、変化するということなのである。 この超越性⇒同一性エネルギー(超越性/同一性エネルギー)がプロテスタンティズム的力動であると考えられる。この超越性⇒同一性の様相がプロテスタンティズム的一神教の様態であると考えられるのである。 問題は、超越性が同一性へと変換してしまい、Media Pointの差異共振性が喪失されることである。つまり、個人主義化されるが、ここには、差異、差異共振性が喪失されるのである。絶対性があるが、それが、個人主義化すなわち近代的自我化されるのである。そして、これこそ、ハイデガーの本来的存在を意味しよう。そして、また、ニーチェの超人(否定的に見た場合)も意味するだろう。ここには、傍若無人な、非社会的な、そう、ホッブズ的な個人があるのである。シェイクスピアで言えば、『リア王』のエドマンド、ゴネリル、リーガンであろう。 ユダヤ/キリスト教はプロテスタンティズムに帰結したと言えよう。ここでは、イエス・キリストの本来の教え(差異共振性と考えられる。仏教と同じである。)は喪失されて、ユダヤ/キリスト教的一神教の自我の力学が実現したと言えよう。 結局、プロテスタンティズムとは、ルネサンスから発して、ルネサンス的差異共振性の否定・排除・隠蔽であるということである。そして、このプロテスタンティズムが資本主義と融合しているのである。つまり、唯一神と資本とが一体化しているのである。これは、いわば、絶対的同一性=資本主義であり、差異=他者を否定する暴力・破壊・悪魔主義と言えるのである。 ここでは、資本が唯一神であり、資本を妨害する差異は排除されるのである。しかしながら、ユダヤ/キリスト教的資本主義が鈍感にも理解していないことは、資本=同一性は、差異(差異共振性)がなければ、発生しないことである。企業とは、差異共振性がなければ、創造性・協力性がなく、成り立ち行かないのである。 結局、ここには、暴力・破壊・悪魔的なユダヤ/キリスト教的資本主義の乗り越えとして、差異共振的トランス・キャピタリズムが発現する必然性があると言えよう。トランス・モダン政治経済である。
by antares11131954
| 2007-11-01 21:13
| ポストキリスト教的西洋文明
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