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これまでの検討から、近代主義、近代資本主義は限界に達して、今や新しい時代、差異主義、差異資本主義の時代に入っていることを確認した。では、これは具体的にどういうことなのか。IT経済とは差異主義、差異資本主義である。それは、個体の差異性ないし特異性を活用するものである。個体の差異・特異性は自己創造的展開として、差異的経済を求めるのであるが、近代主義、近代資本主義の「保守反動性」に阻害されている。しかし、差異主義によって近代的形式性を解体していくのである。それは、経済的にはどういうことだろうか。それは、差異経済を市場に提示・提起することで、差異的買い手に自己提示したり、差異的買い手を創造する。ここから、差異経済創造的生産者と差異経済創造的消費者との対話・コミュニケーションが開始される。差異資本があたらしい経済のユニットである。この差異資本経済によって、差異的個体からの差異資本が集まり、差異資本が増殖する。この差異資本増殖が新たな差異資本を集積させ、進展する。これは、徹底した差異へと進むはずである。福祉も環境も第一次産業も年金も就職も賃金も差異経済化するだろう。差異中心主義となるのである。差異である福祉であり、差異である環境であり、差異である国民であり、差異である農業であり、・・・と進むのである。これは、ヘーゲル的理性=国家主義を完全に解体する。グローバリゼーションの「理性の狡知」である。「帝国」は、差異という妖怪が蠢いているのだ。
p.s. 近代資本主義、それは連続的同一性の資本主義である。それは、イデア=超越論的形式=国民国家=「理性」の形式である。ここで、問題は、貨幣もこの形式であるが、どう差異資本と関係するのだろうか。差異(資本)とは、貨幣形式としては、量的差異として発現するだろう。つまり、近代資本主義、連続的同一性の資本主義においては、同一性形式が支配的であり、企業と企業とは同一性であり、「共同体」化したのである(フジサンケイ・グループ)。同一性としての企業、会社、産業であった。しかし、差異が今や発動胎動しているのである。つまり、同一性資本の粗雑さの隙間に、差異資本の潜在性を見るのである。差異資本潜在力である。ここに差異的投資することで、差異的利益が見込まれるのである。差異資本的創造である。これは、貨幣としては、同一性資本経済の利益量よりも大きなものとして、量的差異が大なるものとして発現するのである。つまり、差異資本的創造とは、貨幣・資本的には、量的差異と発現するのである。すなわち、差異資本経済とは、差異的個体、差異的資本、そして貨幣形式という同一性との結合した経済であるが、基盤は差異性であり、差異が同一性=貨幣形式を駆動するのである。これは何を意味するのか。これは、現象界に存する個体とは、主体的には差異でありつつ、現象界的同一性という様態性をもっているということを表現しているだろう。「わたし」は、差異・特異性でありつつ、同時に、「わたし」という言語同一性形式でもある。近代主義とは、後者中心であった。そして、後近代として、差異というプラス強度・エネルゲイアが烽火を上げているのである。差異という多数の妖怪がボーダレスの世界を遊牧しているのである。 p.s. 結局、差異的個体資本主義あるいは、差異個体資本主義というのがいちばん的確である。 #
by antares11131954
| 2005-03-23 13:40
| 差異資本論
差延とは、ほぼ差異、不連続的差異であると見ていい。しかし、デリダが批判する「根源」とは、同一性の根源=形而上学=「ロゴス/音声言語中心主義」であると見ていいだろう。これは、イデア論や形相論等の西洋観念論やそのアンチテーゼである同形の唯物論の批判である。しかし、ならば、差延の根源を考えられるはずなのに、デリダはそれを無視する。あるいは、差延という根源を考えられるはずである。しかし、デリダはそうはせずに、「根源」を脱構築するのに留まった。それは、差延を論述する言語がやはりロゴス中心主義だからということからである。
ここで、丁寧に考えよう。果たして、言語はロゴス中心主義なのか。また、それ以前に、ロゴス中心主義とは何か。後者を考えよう。デリダの批判したロゴス中心主義は、戦略的な用語である。それは、同一性=ロゴスということである。だから、ロゴス=イデアと見ていい。しかし、ロゴス=音声言語であろうか。デリダが論述に用いた言語は、音声言語ではあるが、音声言語は必ずしも、ロゴス=同一性ではない。簡単に言おう。たとえば、特異性という「ロゴス」は、同一性ではない。特異性という言葉自体は同一性ではあるが、内包されているものは、同一性ではない。だから、音声言語は、ロゴスではあるが、それは、ロゴス=同一性ということにはならない。ロゴス=特異性(差異)ということもあるのである。つまり、デリダは、ロゴス=音声言語=同一性と固定したために、袋小路に陥ったのである。自縄自縛である。ロゴスは、同一性でもあるし、また差異、特異性でもある。 ということで、「根源」・同一性の根源を超えて、差延の根源があるのである。それは、普遍界である。 #
by antares11131954
| 2005-03-23 13:06
| 不連続的差異論
【1.普遍界・不連続的差異】
/Α)普遍極≒善のイデア≒物自体/ 【2.メディア界(=コーラ)】 /Β)現象極=「イデア界=超越論的形式=構造」/ 【3.現象界・連続的同一性】 以上のように先の図式を修正した。問題は、普遍極、善のイデア、物自体との関連性である。普遍極とは、普遍界とメディア界との界面であり、いわば普遍界の縁である。そこでは、不連続的差異が共存、共立する普遍界に通じるが、同時に、メディア界というゆらぐ媒介領域へ通じている。メディア界自体ではない。このような普遍極とプラトンの善のイデア、カントの物自体とはどう関係するのか。善のイデアとはいわば同一性の同一性である。そう、これは、ヘーゲルの精神ないし理性だろう。だから、普遍極に置くことはできない。では、物自体との関係は。物自体には、特異性ないし差異の感触はある。しかし、まったく、概念の範疇に入らず、哲学として不徹底である。これは、普遍極にほぼ位置するとすべきだろう。ということで、上図式は以下のようにさらに修正される。 【1.普遍界・不連続的差異】 /Α)普遍極≒物自体/ 【2.メディア界(=コーラ】(→善のイデア=ヘーゲルの精神=「悪霊」・「幽霊」) /Β)現象極=「イデア界=超越論的形式=構造」/ 【3.現象界・連続同一性】 p.s. 善のイデアであるが、これは正確に言えば、両義的だろう。やはり、普遍極に近い面があるだろう。だから、また修正しよう。 【1.普遍界・不連続的差異】 /Α)普遍極≒善のイデア≒物自体/ 【2.メディア界(=コーラ)】 /Β)現象極=「イデア界=超越論的形式=構造」/ 【3.現象界・連続的同一性】 以上のように先の図式を修正した。問題は、普遍極、善のイデア、物自体との関連性である。普遍極とは、普遍界とメディア界との界面であり、いわば普遍界の縁である。そこでは、不連続的差異が共存、共立する普遍界に通じるが、同時に、メディア界というゆらぐ媒介領域へ通じている。メディア界自体ではない。このような普遍極とプラトンの善のイデア、カントの物自体とはどう関係するのか。善のイデアとはいわば同一性の同一性である。そう、これは、ヘーゲルの精神ないし理性だろう。だから、普遍極に置くことはできない。では、物自体との関係は。物自体には、特異性ないし差異の感触はある。しかし、まったく、概念の範疇に入らず、哲学として不徹底である。これは、普遍極にほぼ位置するとすべきだろう。ということで、上図式は以下のようにさらに修正される。 【1.普遍界・不連続的差異】 /Α)普遍極≒善のイデア≒物自体/ 【2.メディア界(=コーラ】(→善のイデア=ヘーゲルの精神=「悪霊」・「幽霊」) /Β)現象極=「イデア界=超越論的形式=構造」/ 【3.現象界・連続同一性】 p.p.s. 善のイデアを二つの箇所に入れた。それは、善のイデアは、両方の側面があるからだ。一方、差異を示唆するので、普遍極に置き、他方、その観念が独立すると、正に観念主義となり、ヘーゲルの絶対的同一性観念主義になる。 #
by antares11131954
| 2005-03-23 09:32
| 不連続的差異論
不連続的差異論の術語:普遍界/メディア界/現象界
先に、イデア界を差異界と変更したが、このことの意味を再確認しておこう。 ここで、イデア・理念について確認しよう。これは、知覚される物質的並びに精神的現象の根元・本源を意味するものである。現象界には存しないためにイデア・理念と呼ばれるのである。つまり、机という現象の根元・理念としてイデア・理念としての机を想定するのである。つまり、イデアとは、現象の同一性の根元性を指す。ここで、同一性の根元であることに強く注意しないといけない。つまり、イデア・理念とは同一性の基礎概念である。 さて、これに対して、ジル・ドゥルーズは、差異という概念を用いて、プラトン哲学を批判したのである。同一性ではなくて、差異が根元にあるとしたのである。しかし、ドゥルーズは、差異の次元をイデア・理念としている。これは、術語の混同、混乱である。同一性の根元としてのイデア・理念の次元があるのであるから、差異の根元をイデア・理念とするのは、混同・混乱である。だから、根元界、本源界、超越界、始原界、原初界、元界等々と呼ぶ方が的確である。故に、イデア・理念とは、一つの根元界を指す。しかし、それは、同一性の根元界に過ぎない。だから、差異という根元の存する次元は、イデア界・理念界ではありえない。別の呼び方をしないといけないのである。 結局、差異界に変更したのである。しかし、それを普遍界と呼ぶことができるだろう。それも正確に言えば、特異性普遍界である。ということで、不連続的差異論の三界性は、 普遍界/メディア界/現象界 となるだろう。普遍界に不連続的差異(特異的差異)が存するのである。そして、イデア・理念とは、メディア界に存するのである。また、コーラであるが、それは、メディア界全体を指すであろう。そして、イデアのイデアとプラトンが呼んだ善のイデアであるが、それは普遍界を示唆する。もう少し、丁寧にみよう。普遍界には不連続的差異が境界に隔てられて存している。しかるに、90度回転によって連続化(擬制)される。これがメディア界である。これがプラス強度をもち、反作用としてマイナス強度を生起する。これで現象界に捩れ、らせん的形状・運動をもつ。すなわち、らせん的に普遍界に回帰するのである。 さて、ここで、プラトンのイデアを見ると、それは同一性の根元であるから、普遍界にあるのではなくて、メディア界にあると言うべきである。なぜなら、メディア界において差異は連続化(擬制)して、同一性の根元(元分節)を形成すると考えられるからである。では、イデアはメディア界のどこに存するのだろうか。それは、90度回転した軸ないし境界に存するだろう。しかし、イデアと固定したことで、それは、軸・境界の元分節そのものと見るべきだろう。これが、メディア界の現象面である。そして、コーラは、メディア界全体である。それでは、イデアのイデアである善のイデアはどこに存するのか。イデアのイデアとは端的に差異であろう。それは、軸・境界に存していると言えるし、普遍面にあると言えよう。しかし、普遍界には存しないだろう。なぜならば、イデアとは畢竟、同一性の根元だからだ。差異ではない。ということで、本件に関して整理できたであろう。ここで図示してまとめよう。 【1.普遍界・不連続的差異】 /Α)普遍極=「善のイデア」/ 【2.メディア界(=コーラ)】 /Β)現象極=「イデア=超越論的形式=構造」/ 【3.現象界・連続同一性】 なお、/Α/は、1と2の境界であり、/Β/は2と3の境界である。だから、プラトンのイデア界とは、現象極にあり、それはカントの超越論的形式の次元と等しいこととなる。では、カントの物自体はどこにあるのか。それは、メディア界ないし普遍極である。正確に言えば、普遍極で、「善のイデア」と一致しよう。カントも差異自体を捉えていないと言うべきだ。 #
by antares11131954
| 2005-03-22 20:52
| 不連続的差異論
1.星辰差異(遺伝子)
A:差異(本源)界・・・星辰差異/虚度 B:メディア界・・星辰差異+強度・・・特異性・コギト 星辰差異−強度・・・「星座」原型・イデア C:現象界・・・・星辰個体(身体/精神) 2.継続差異(遺伝子) A:メディア界・連続差異的イデア界・・・継続差異/虚度 B:連続差異的メディア界・・継続性的差異+強度:雌(♀) 継続性的差異−強度:雄(♂) C:現象界・・・・・・・・・継続個体(身体/精神) 3.星辰/継続差異個体(現象人間個体)(=1+2) 以上のように修正すると、不連続的差異論の三界性の用語が変化する。これまで、イデア界/メディア界/現象界という用語であったが、それを、たとえば、 差異本源界/メディア(イデア)界/現象界 とでもすべきだろう。簡単にすれば、 差異界/メディア界/現象界 である。ただし、差異界だけでは、「超越性」が見えないだろう。しかし、返ってその方がいいのかもしれない。とまれ、イデアは、プラトンが用いたのとほぼ同じ意味になる。すなわち、原型としてのイデアである。そして、それは、メディア界に含まれる。また、プラトンの述べたイデアのイデアである善のイデアは、ほぼ差異界を指すと見ていいだろう。そして、コーラとは、差異界/メディア界の境界を指すだろう。そして、アリステレスのエネルゲイアとは、推測するに、差異虚度とメディア界強度を指すだろう。そして、エンテレケイアとは、現象界であろう。デュナミスとは、メディア界/現象界の境界であろう。つまり、プラトンのイデアであろう。 p.s. これまで、差異をイデア・理念と捉えて、差異、つまり不連続的差異の存する領域をイデア界と呼んできたのであるが、ここに来て、術語の変更となったが、これはどういうことだろうか。私は、ジル・ドゥルーズの差異の哲学を主導的基礎として、差異をイデア・理念としてきたのである。それに従って、イデア界と呼んだと言えよう。そして、差異を不連続的差異と連続的差異に理論的に分離して、ドゥルーズの差異の哲学の問題点を提示して、それを批判的に整備して、不連続的差異論が生まれたのである。不連続性/連続性の区別の指摘はODA ウォッチャーズ氏によるものであり、そして、合作として、展開させて行ったのである。ここには問題はない。しかし、理論を深化させていくうちに、差異が単なる理念・イデアから、存在性をもってきたのである。私は、知即存在と考えた(もっとも、これもまだ検討の余地はある)。また、ニーチェ哲学のもつ特異性を差異に明確に認めたのである。すると、差異とは、プラトンやドゥルーズの考えるようなイデア・理念ではなくなってきたのである。イデア・理念とは、メディア界にふさわしい概念だと思う。ではあるが、差異の存する本源・根源界をイデア界と呼び続けてきたのである。しかし、今や、イデア界という用語を放棄して、差異界と変更して明確にすることとなった。これが意味することは、ドゥルーズ自身の不連続的差異(特異性)と連続的差異(理念・イデア)の混同に基づく考え方による用語を無批判に使用していて、深化によって矛盾に気がついたということであろう。つまり、換言すれば、ドゥルーズは、差異とイデアを混同していたのであり、われわれはドゥルーズ哲学をただしく批判して整合化したのであるものの、それが用語において徹底していなかったために、このような根本的概念の用語の変更が生じたということである。 #
by antares11131954
| 2005-03-22 15:56
| 不連続的差異論
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