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<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>:自己を自我に変更する:陽は自我となる
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス 自我と知性のズレ:自己同一性の盲目と知性(悟性):父権的自我は知性 ... http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11463254471.html 先に以上で述べたことを受けて、以下のようにバージョンアップする。 つまり、自己が自我となったのである。陽原理は自我の原理であり、自己のではない。自己とは自我・陽と他者・陰との共振体が本当のものであり、それは、個ということである。 <無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0> 陰陽(円) 陽(✡):自我 | | | | | ★ _______・_______実軸(気=天地軸)+1 ☆ | | | | | 陰(✪):他者 【但し、・は太極点(内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。 そして、陰陽(円)は軸ではなく、多次元、無限次元、無次元であり、陽=自我と陰=他者で意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。 尚、実軸は気軸=天地軸とし、太極点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸(空間三次元)は記入していない。時間はエネルギーであり、以下の⇒に相当する。 霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。無双陰陽原理公式である。 ✪✇✡⇒a + bi + cj + dk or ✪✇✡⇒+1 + i + j + k 】 #
by antares11131954
| 2013-02-12 04:54
| 無双陰陽原理
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11452921535.html 太極⇒陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒螺旋生命物質体:生命物質現象の根源は太極⇒陰素*陽素:ポスト唯物論 テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス 再掲:気と電磁波:生命気(生命気波動)の超越的次元と電磁波の三次元の平行する現象界 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11451893787.html 先に以上の記事を転載したが、考え方を整合的にする必要がある。 気⇒電磁波は、不正確である。正しくは、陰霊と陽霊の即非共振によって、気と螺旋生命物質体を同時形成されるということである。図式化すると、 陰霊*陽霊⇒気+螺旋生命物質体 (ただし、*は即非共振とする。なお、即非共振とは、端的に、陰陽の極性のことである。即ち、牽引と反発が同時生起している極性である。) 気とは、陰陽霊の即非共振のエネルギー体であると考える(シュタイナーはエーテル体という用語を使う)。 気が、現象界において、内在超越的に存するのであるが、生命体は、基本的には、螺旋生命物質体としての現象化している。(尚、渦巻であるが、それは、螺旋の原型であると考えられるので、螺旋に含めることを仮説とする。) 気についてであるが、陰陽即非共振はMP(メディア・ポイント)で為され、そこが起点となり、気が放出される。つまり、 陰霊*陽霊⇒MP⇒気(+螺旋生命体) である。 そう、だから、気を感知するということは、超越性に通じるのである。つまり、陰陽即非共振の場・ポイントであるMPを感知するのであり、それは、陰霊と陽霊に通じるということになる。つまり、陰陽円に「通底」するということになる。 陰陽円に「通底」するということは、究極的には、太極に通じるということになろう。つまり、神霊界に通じるということになる。「神(神々):死者の霊も含まれる」と一体となるということになるだろう。(神霊界・神界・霊界とは、当然、永遠界である。) 問題は、気と螺旋生命物質体(簡単に生命体と呼ぶ)ないし物質体との関係である。 分かりやすくする為に、内部に気空間があり、外部が物質空間であるとしよう。 生命体は現象的には外部空間にあり、その内部に気空間があるということになる。(私は外部空間は三次元空間で、内部空間は天地軸一次元空間と作業仮説している。) 上図式であるが、気+螺旋生命物質体としているが、気が螺旋生命物質体に先行するのではないだろうか。そうすると、図式を書き直すことになる。 陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒螺旋生命物質体 となる。 気⇒螺旋生命物質体(生命体)であるが、これは、再掲した図式、即ち、 陰*陽⇒(+*-)&(N*S) 【(+*-)は電気であり、(N*S)は磁気であり、&は両者の結合したものとしての電磁波様態を意味する。】 を変形すると、 陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒(+*-)&(N*S) となる。そして、右辺の(+*-)&(N*S)が螺旋生命物質体(生命体)と考えられる。 そして、四元数(しげんすう)であるが、三つの虚数i, j, kは、作業仮説的に、仮に、それぞれ、電気、電磁波、磁気とする。これが、空間三次元を形成するとするのである。 電磁波は螺旋形状を形成するのであり、その螺旋伸長が一次元であり、それに直交する平面、電気(電界)と磁気(磁界)の平面(二次元)が存すると考えるのであり、それが空間三次元を形成する考えるのである。(四元数の実数1であるが、それは、気と考えるのである。気軸=天地軸を形成すると考える。故に、先に述べたように、私は、現段階では、空間三次元ではなく、空間四次元説を仮説している。) とまれ、生命とは気が本質であり、生命体(生命物質体)は、気が形成する物質体であるから、気と結合していることになる。そして、気がなくなると、生命体は死ぬことになり、死体、遺体となるのである。 もっとも、気と生命物質体の関係であるが、後者はある独立性をもっているだろう。だから、物質の代謝が重要になると考えられる。 (DNAであるが、思うに、気自体のもつ螺旋形状が二重螺旋であり、それが、物質的に反映したものではないだろうか。これは検討課題である。) また、種別の生命体であるが、遺伝情報は、当然、気に存すると考えれる。つまり、陰霊*陽霊(以下、簡便にするために、陰*陽とする)において、気の原情報が存すると思われる。(そう、ここに、DNAの情報を見ていいのかもしれない。) つまり、陰*陽の様態の種別があるのであり、それが、それぞれの生命体の遺伝子情報をもっていると思われる。 ここで、仮に、作業仮説的に、例示すると、 (陰1*陽1)*(陰2*陽2)*(陰3*陽3)*・・・*(陰n*陽n)⇒気n⇒螺旋生命体n となるのではないだろうか。各生命体において、このnのあり方が異なるということではないだろうか。 つまり、陰*陽を差異とすると、多元(多種多様)的差異共振体としての生命体ということになる。 図式化すると、 差異1*差異2*差異3*・・・*差異n⇒多元的気⇒多元的生命体 である。 とまれ、以上から、思考実験的に、生命現象界が陰陽から形成されることを仮説した。 つまり、現象の根源に存するのは、素粒子、量子という物質ではなく、陰と陽(陰霊と陽霊)であり、その即非共振としての気=陰陽双極子が原現象であるということになろう。 参考: resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! 追記:内部空間としての気空間と言ったが、思うに、それは、人体では、肚と関係すると思う。つまり、陰に関係すると思う。 肚=陰がどうして、気と直接直截に関係するのか。 頭=陽=自己(自我)は同一性なので、肚=陰=他者を直観できずに、同一性化=観念知化してしまい陰陽即非共振を感知できないと考えられる。 それに対して、肚=陰=他者は、頭=陽=自己(自我)を包摂できるので、即非共振様態を帯びると考えられよう。 だから、気を感受感知するのは、肚を介した胸=心臓(MP)であると思われるのである。 気の光(気光)=超越光(超光)も、そこで、視覚できるように思う。これは、一種の霊視である。 そう、物質的太陽だけでなく、気的太陽が存するのである。それが、D.H.ロレンスのダーク・サンであり、シュタイナーの霊的太陽ではないだろうか。 因みに、飯山一郎氏が日光浴を推奨するが、それは、物質的太陽の光だけでなく、気の光(気光、不可視光、超越光・超光)を浴びることを意味しよう。 気は生命であり、日光浴とは生命浴である。 参照: 日曜日。 いま、日本列島には強烈な偏西風が吹きまくっている。 このため東電福島が噴出する放射性物質は太平洋の彼方 へ飛び去っている。日本にとっては神風だ。 志布志も風が強いが、快晴。 きょうは夕方まで客人なし。 よし! パンツ一丁で日光浴でも するかーー。 日光浴は身体を内部まで温める。汗がでるほど温める。 これで免疫力(マクロファージ)がグ~ンと増えて、全身に行き わたる。 とにかく皆さん、春になるまでは身体を冷やさないこと! このことだけは絶対に忘れないでください。 ◆ 2013/01/20(日) 音田がシャープの悪口を書き続ける理由 ct 飯山一郎のHPへ #
by antares11131954
| 2013-01-20 22:10
この問題は不連続的差異論の意義に関係するが、ps理論の視点から解明したい。
というか、実質は既に解明されているので、再確認の意味で検討したい。 精神(+i)*(-i)【追記:(+i)*(-i)は根源的精神、いわば、原精神であり、現実態エネルゲイアとしての精神はMedia Pointないしは精神的フィルターである】は、Media Pointを介して、+1へと展開する。この+1が同一性である。即ち、物質であり、自我である。本来は差異であるが、それが、同一性へと転換するのである。これが、以前述べた連続的同一性である。即ち、差異が同一性と連続化するのことである。つまり、本来、不連続な差異が同一性と連続化する事態、混濁した事態である。 そして、端的に、この様相が本件のテーマである混同力学の実体であると言える。 思うに、自然の力学は連続性を伴うのである。それ故、自己を見失うのである。しかし、これには意味がある。自然的連続性を脱却して、真の自己へと帰還するという意味である。これが、人類の物語の本質である。 そして、自己は他者を内包しているので、社会的正義を実践するのである。つまり、社会的進化が志向されるのである。 さて、本題をもう少し説明すると、この連続化によって、精神と物質が混淆され、矛盾様態となる。近代合理主義以前は、精神は宗教権力が担い、それとも別に、世俗生活が物質と関係した。いわば、二元論があったのである。 しかるに、近代合理主義は、同一性(物質・自我)の視点から連続的混淆様態を整理(合理化)したのである。そのために、本源の精神・差異・自己が否定されたのである。まったく本末転倒である。(持論は近代的自我は狂気であるということである。) この同一性主義が差異を否定・抑圧・排除・隠蔽するのであり、端的に、内的暴力なのである。そのために、近代的自我は内的暴力を内包し、他者に対して、差別・暴力・攻撃的になると言える。 言い換えると、差異の否定とは、差異にある内的他者を否定するので、外的他者に対して、攻撃的になると考えられる。 しかし、当然、外的他者への攻撃ばかりでなく、自己自身への攻撃でもある。故に、心の病気(精神病)になるのである。 思うに、近代合理主義とは、同一性へ傾斜した力学をもつのであるが、それは、デリダが指摘したように西洋文明のロゴス中心主義に根源があると言えよう。あるいは、一神教的な、ないしは、父権的な同一性力学にである。 そう、この同一性への傾斜とは、母権的というよりは、父権的であると言えよう。なぜなら、母権性は、本来(今日には当てはまらないが)、差異を保持するものであるからである。 しかし、この同一性傾斜の力学は的確に説明する必要がある。 これは簡単に言えば、「陽」の力、プラス・エネルギーに存しているのではないだろうか。これが、いわば、男性的な力学である。 それに対して、差異を保持する力学は、「陰」の力、マイナス・エネルギーに拠るのではないだろうか。ps理論から言えば、マイナス1を形成する力学である。 プラスが太陽とすれば、マイナスは月である。父権的な力学はマイナス=月を否定してしまうと言えよう。 しかしながら、端的に、マイナス1とは何か。プラス1は同一性であるのである。これを差異としたくなるが、そうではない。差異はMedia Pointにあるからである。 マイナス1は、反同一性である。反物質、反自我である。いわば、影である。おそらく、ダーク・マターはこれである。あるいは、虚と言ってもいいのではないだろうか。プラス1が実ならば、マイナス1は虚である。 しかしながら、より実感的に言えば何か。思うに、実感する「心」、情感の在処ではないだろうか。つまり、経験論的な「心」である。 それに対して、Media Pointは超越論(超越)的な「心」と言えよう。それは、理論的なものである。実感的なものではないだろう。 そう見ると、プラトンのイデア界はMedia Pointに存すると言えようし、コーラはマイナス1ではないだろうか。(先には、-iと考えたが。この問題は検討課題としたい。) そして、精神(精霊)界とは、虚軸であると言えるのではないだろうか。とまれ、ここで留める。 追記:イデア界と精神界の区別が以上でいいのか問題である。 しかし、イデアはMedia Pointに存すると思われる。そして、精神・精霊・霊魂は虚軸に存すると思われるのである。だから、以上でいいのではないだろうか。 追記2:神話学的に見ると、イシスとオシリスの神話における太陽であるが、オシリスがプラス1としても、イシスはMedia Pointではないだろうか。 しかし、父権的神話となると、イシスに当たるものが、怪物となり、殺戮されるのである。そう、Media Pointが混沌とされるのである。そして、プラス1へと傾斜するのである。そう、神話でウロボロスとされるものは、不正確であろう。本来はMedia Pointである。超越的極性(太極)である。 ギリシア神話でアポロを考えると、両面が混在していると言えよう。それが、ニーチェの『悲劇の誕生』に現れていると考えられる。また、ゼウスもそうであろう。ギリシア神話は母権的神話と父権的神話が重なっているのである。 追記3:差異は原存在、同一性は現存在と仮に対応させて考えてみると、ハイデガーの存在論とは、 フッサール現象学の混濁化である。フッサールの意識(超越論的主観性)の場と自然的態度は不連続であるが、ハイデガーは、両者を存在的にして、かつ、連続化させてしまったのである。つまり、意識(超越論的主観性)の場と自然的態度を連続させ、意識の場を存在、そして、自然的態度を現存在に置き換えたと考えられる。 そのため、フッサール現象学の画期的な不連続性が否定されてしまったのである。 もっとも、存在をハイデガーの意味でなく、認識主体の意味で使えば、差異を存在、同一性を現存在と見ることは正しいことになる。 追記4:行為等に味があるというときの「味」とは、マイナス1のことではないだろうか。余韻とか余情とか気韻とかは、それではないだろうか。 #
by antares11131954
| 2010-02-13 00:06
| PLATONIC SYNERGY
今は余裕がないので、随想に留める。
以前、男性は+iの傾斜があるといい、女性は、バランスがとれていると言った。しかしながら、女性は、-iの傾斜があるのではと言いたい誘惑がある。 問題は、男性の場合、同一性化が女性よりも強いということである。だから、同一性傾斜があるということである。 そして、女性の場合、差異共振性が保持されると思われるのである。もっとも、これは、理念的に言っているのである。 言い換えると、男性の場合、差異共振エネルギーが連続的同一性化され、女性の場合は、それが、切断される契機をもっているということになる。つまり、女性の場合は、不連続・非連続になる傾向があるということである。 これはどういうことなのか。女性の叡知(「ソフィア」)というものが、先天的にあるということなのか。力学的に考えよう。⇒+1の⇒を保持させる叡知があるということになろう。あるいは、Media Pointの叡知である。通俗的に言えば、バランスの叡知である。 先に提起したことを作業仮説とすれば、+i/-i⇒-1の叡知があるということなのか。この⇒-1が連続的同一性化を否定するとは言えよう。とまれ、反・非連続的同一性化の叡知が女性には本来あるということになる。 今は、作業仮説的に、⇒-1の反・非連続的同一性志向、即ち、不連続的志向性があるとしよう。 ここで文化史・文明史的に見ると、母権文化から父権文化の転換において、前者の反・非連続的同一性志向性が否定されて、後者の連続的同一性志向性が肯定されたということになる。 しかし、問題は、この転換を、物質性から精神性への転換と見るのが一般的なことである。女性は物質的で、男性が精神的であるという視点である。 しかしながら、上記の視点では逆である。女性は精神的であり、男性こそ、物質的である。 この混乱は、現象と物質を同一視する西洋文化の二元論性に由来すると考えられる(参考:フッサールの現象学)。先に述べたが、イデア⇒現象⇒同一性=物質であり、同一性=物質は抽象的仮象である。 とまれ、本視点から言うと、母権文化とは、イデア⇒現象的であるということであり、父権文化は形而上性(超越的同一性?=構造性)⇒同一性=物質的であるということである。 この転換の意義はこれまで繰り返し述べたように、物質科学・技術の形成である。父権文化社会に転換しなければ、近代科学・技術はなく、未だに、井戸から水を汲み、川で洗濯をし、竈で食事を作っていた等をしていたと考えられる。それは、積極的な意味があったのである。 しかし、それは、唯物論や狂気・暴力の不都合をもたらしたのである。 今やトランス・モダンの時代である。これは、母権文化社会への螺旋的回帰と考えられる。父権文化社会の成果を批判的に包摂した超越的差異共振の文化社会の構築を意味するのである。 今はここで留める。 #
by antares11131954
| 2009-07-11 01:30
| プラトニック・シナジー理論
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