英知の探究:http://renshi.ameblo.jp/


新しい理論である不連続的差異論の検討を行います
by antares11131954
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<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>:自己を自我に変更する:陽は自我となる     

<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>:自己を自我に変更する:陽は自我となる

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

自我と知性のズレ:自己同一性の盲目と知性(悟性):父権的自我は知性 ...
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11463254471.html
先に以上で述べたことを受けて、以下のようにバージョンアップする。
つまり、自己が自我となったのである。陽原理は自我の原理であり、自己のではない。自己とは自我・陽と他者・陰との共振体が本当のものであり、それは、個ということである。

<無双陰陽原理概念座標:Ver13.0.0>

         陰陽(円)

          陽(✡):自我
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          ★
_______・_______実軸(気=天地軸)+1
          ☆
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          |
          |
         陰(✪):他者

【但し、・は太極点(内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 そして、陰陽(円)は軸ではなく、多次元、無限次元、無次元であり、陽=自我と陰=他者で意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
尚、実軸は気軸=天地軸とし、太極点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸(空間三次元)は記入していない。時間はエネルギーであり、以下の⇒に相当する。
 霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。無双陰陽原理公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k

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# by antares11131954 | 2013-02-12 04:54 | 無双陰陽原理

太極⇒陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒螺旋生命物質体:生命物質現象の根源は太極⇒陰素*陽素:ポスト唯物論

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11452921535.html

太極⇒陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒螺旋生命物質体:生命物質現象の根源は太極⇒陰素*陽素:ポスト唯物論

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

再掲:気と電磁波:生命気(生命気波動)の超越的次元と電磁波の三次元の平行する現象界
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11451893787.html

先に以上の記事を転載したが、考え方を整合的にする必要がある。
 気⇒電磁波は、不正確である。正しくは、陰霊と陽霊の即非共振によって、気と螺旋生命物質体を同時形成されるということである。図式化すると、

陰霊*陽霊⇒気+螺旋生命物質体

(ただし、*は即非共振とする。なお、即非共振とは、端的に、陰陽の極性のことである。即ち、牽引と反発が同時生起している極性である。)
 
 気とは、陰陽霊の即非共振のエネルギー体であると考える(シュタイナーはエーテル体という用語を使う)。
 気が、現象界において、内在超越的に存するのであるが、生命体は、基本的には、螺旋生命物質体としての現象化している。(尚、渦巻であるが、それは、螺旋の原型であると考えられるので、螺旋に含めることを仮説とする。)
 気についてであるが、陰陽即非共振はMP(メディア・ポイント)で為され、そこが起点となり、気が放出される。つまり、

陰霊*陽霊⇒MP⇒気(+螺旋生命体)

である。
 そう、だから、気を感知するということは、超越性に通じるのである。つまり、陰陽即非共振の場・ポイントであるMPを感知するのであり、それは、陰霊と陽霊に通じるということになる。つまり、陰陽円に「通底」するということになる。
 陰陽円に「通底」するということは、究極的には、太極に通じるということになろう。つまり、神霊界に通じるということになる。「神(神々):死者の霊も含まれる」と一体となるということになるだろう。(神霊界・神界・霊界とは、当然、永遠界である。)
 問題は、気と螺旋生命物質体(簡単に生命体と呼ぶ)ないし物質体との関係である。
 分かりやすくする為に、内部に気空間があり、外部が物質空間であるとしよう。
 生命体は現象的には外部空間にあり、その内部に気空間があるということになる。(私は外部空間は三次元空間で、内部空間は天地軸一次元空間と作業仮説している。)
 上図式であるが、気+螺旋生命物質体としているが、気が螺旋生命物質体に先行するのではないだろうか。そうすると、図式を書き直すことになる。

陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒螺旋生命物質体

となる。
 気⇒螺旋生命物質体(生命体)であるが、これは、再掲した図式、即ち、

陰*陽⇒(+*-)&(N*S)

【(+*-)は電気であり、(N*S)は磁気であり、&は両者の結合したものとしての電磁波様態を意味する。】

を変形すると、

陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒(+*-)&(N*S)

となる。そして、右辺の(+*-)&(N*S)が螺旋生命物質体(生命体)と考えられる。
 そして、四元数(しげんすう)であるが、三つの虚数i, j, kは、作業仮説的に、仮に、それぞれ、電気、電磁波、磁気とする。これが、空間三次元を形成するとするのである。
 電磁波は螺旋形状を形成するのであり、その螺旋伸長が一次元であり、それに直交する平面、電気(電界)と磁気(磁界)の平面(二次元)が存すると考えるのであり、それが空間三次元を形成する考えるのである。(四元数の実数1であるが、それは、気と考えるのである。気軸=天地軸を形成すると考える。故に、先に述べたように、私は、現段階では、空間三次元ではなく、空間四次元説を仮説している。)
 とまれ、生命とは気が本質であり、生命体(生命物質体)は、気が形成する物質体であるから、気と結合していることになる。そして、気がなくなると、生命体は死ぬことになり、死体、遺体となるのである。
 もっとも、気と生命物質体の関係であるが、後者はある独立性をもっているだろう。だから、物質の代謝が重要になると考えられる。
 (DNAであるが、思うに、気自体のもつ螺旋形状が二重螺旋であり、それが、物質的に反映したものではないだろうか。これは検討課題である。)
 また、種別の生命体であるが、遺伝情報は、当然、気に存すると考えれる。つまり、陰霊*陽霊(以下、簡便にするために、陰*陽とする)において、気の原情報が存すると思われる。(そう、ここに、DNAの情報を見ていいのかもしれない。)
 つまり、陰*陽の様態の種別があるのであり、それが、それぞれの生命体の遺伝子情報をもっていると思われる。
 ここで、仮に、作業仮説的に、例示すると、

(陰1*陽1)*(陰2*陽2)*(陰3*陽3)*・・・*(陰n*陽n)⇒気n⇒螺旋生命体n

となるのではないだろうか。各生命体において、このnのあり方が異なるということではないだろうか。
 つまり、陰*陽を差異とすると、多元(多種多様)的差異共振体としての生命体ということになる。
 図式化すると、

差異1*差異2*差異3*・・・*差異n⇒多元的気⇒多元的生命体

である。
 とまれ、以上から、思考実験的に、生命現象界が陰陽から形成されることを仮説した。
 つまり、現象の根源に存するのは、素粒子、量子という物質ではなく、陰と陽(陰霊と陽霊)であり、その即非共振としての気=陰陽双極子が原現象であるということになろう。

参考:

resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning!
resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning! resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning!

追記:内部空間としての気空間と言ったが、思うに、それは、人体では、肚と関係すると思う。つまり、陰に関係すると思う。
 肚=陰がどうして、気と直接直截に関係するのか。
 頭=陽=自己(自我)は同一性なので、肚=陰=他者を直観できずに、同一性化=観念知化してしまい陰陽即非共振を感知できないと考えられる。
 それに対して、肚=陰=他者は、頭=陽=自己(自我)を包摂できるので、即非共振様態を帯びると考えられよう。
 だから、気を感受感知するのは、肚を介した胸=心臓(MP)であると思われるのである。
 気の光(気光)=超越光(超光)も、そこで、視覚できるように思う。これは、一種の霊視である。
 そう、物質的太陽だけでなく、気的太陽が存するのである。それが、D.H.ロレンスのダーク・サンであり、シュタイナーの霊的太陽ではないだろうか。
 因みに、飯山一郎氏が日光浴を推奨するが、それは、物質的太陽の光だけでなく、気の光(気光、不可視光、超越光・超光)を浴びることを意味しよう。
 気は生命であり、日光浴とは生命浴である。

参照:

日曜日。
いま、日本列島には強烈な偏西風が吹きまくっている。
このため東電福島が噴出する放射性物質は太平洋の彼方
へ飛び去っている。日本にとっては神風だ。

志布志も風が強いが、快晴。
きょうは夕方まで客人なし。 よし! パンツ一丁で日光浴でも
するかーー。
日光浴は身体を内部まで温める。汗がでるほど温める。
これで免疫力(マクロファージ)がグ~ンと増えて、全身に行き
わたる。
とにかく皆さん、春になるまでは身体を冷やさないこと!
このことだけは絶対に忘れないでください。
◆ 2013/01/20(日) 音田がシャープの悪口を書き続ける理由

ct 飯山一郎のHPへ
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# by antares11131954 | 2013-01-20 22:10

こちらを避難所ブログにしよう

アメブロが緊急メンテナンスをしていたので、
この休止していたブログを避難所としよう。
アメブロがついさっき回復した。
http://ameblo.jp/renshi/
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# by antares11131954 | 2010-07-13 12:16 | 日記・備忘録・コメント

差異(精神・自己)と同一性(物質・自我)との混同力学:連続的同一性と父権的傾斜

この問題は不連続的差異論の意義に関係するが、ps理論の視点から解明したい。
 というか、実質は既に解明されているので、再確認の意味で検討したい。
 精神(+i)*(-i)【追記:(+i)*(-i)は根源的精神、いわば、原精神であり、現実態エネルゲイアとしての精神はMedia Pointないしは精神的フィルターである】は、Media Pointを介して、+1へと展開する。この+1が同一性である。即ち、物質であり、自我である。本来は差異であるが、それが、同一性へと転換するのである。これが、以前述べた連続的同一性である。即ち、差異が同一性と連続化するのことである。つまり、本来、不連続な差異が同一性と連続化する事態、混濁した事態である。
 そして、端的に、この様相が本件のテーマである混同力学の実体であると言える。
 思うに、自然の力学は連続性を伴うのである。それ故、自己を見失うのである。しかし、これには意味がある。自然的連続性を脱却して、真の自己へと帰還するという意味である。これが、人類の物語の本質である。
 そして、自己は他者を内包しているので、社会的正義を実践するのである。つまり、社会的進化が志向されるのである。
 さて、本題をもう少し説明すると、この連続化によって、精神と物質が混淆され、矛盾様態となる。近代合理主義以前は、精神は宗教権力が担い、それとも別に、世俗生活が物質と関係した。いわば、二元論があったのである。
 しかるに、近代合理主義は、同一性(物質・自我)の視点から連続的混淆様態を整理(合理化)したのである。そのために、本源の精神・差異・自己が否定されたのである。まったく本末転倒である。(持論は近代的自我は狂気であるということである。)
 この同一性主義が差異を否定・抑圧・排除・隠蔽するのであり、端的に、内的暴力なのである。そのために、近代的自我は内的暴力を内包し、他者に対して、差別・暴力・攻撃的になると言える。
 言い換えると、差異の否定とは、差異にある内的他者を否定するので、外的他者に対して、攻撃的になると考えられる。
 しかし、当然、外的他者への攻撃ばかりでなく、自己自身への攻撃でもある。故に、心の病気(精神病)になるのである。
 思うに、近代合理主義とは、同一性へ傾斜した力学をもつのであるが、それは、デリダが指摘したように西洋文明のロゴス中心主義に根源があると言えよう。あるいは、一神教的な、ないしは、父権的な同一性力学にである。
 そう、この同一性への傾斜とは、母権的というよりは、父権的であると言えよう。なぜなら、母権性は、本来(今日には当てはまらないが)、差異を保持するものであるからである。
 しかし、この同一性傾斜の力学は的確に説明する必要がある。
 これは簡単に言えば、「陽」の力、プラス・エネルギーに存しているのではないだろうか。これが、いわば、男性的な力学である。
 それに対して、差異を保持する力学は、「陰」の力、マイナス・エネルギーに拠るのではないだろうか。ps理論から言えば、マイナス1を形成する力学である。
 プラスが太陽とすれば、マイナスは月である。父権的な力学はマイナス=月を否定してしまうと言えよう。 
 しかしながら、端的に、マイナス1とは何か。プラス1は同一性であるのである。これを差異としたくなるが、そうではない。差異はMedia Pointにあるからである。
 マイナス1は、反同一性である。反物質、反自我である。いわば、影である。おそらく、ダーク・マターはこれである。あるいは、虚と言ってもいいのではないだろうか。プラス1が実ならば、マイナス1は虚である。
 しかしながら、より実感的に言えば何か。思うに、実感する「心」、情感の在処ではないだろうか。つまり、経験論的な「心」である。
 それに対して、Media Pointは超越論(超越)的な「心」と言えよう。それは、理論的なものである。実感的なものではないだろう。
 そう見ると、プラトンのイデア界はMedia Pointに存すると言えようし、コーラはマイナス1ではないだろうか。(先には、-iと考えたが。この問題は検討課題としたい。)
 そして、精神(精霊)界とは、虚軸であると言えるのではないだろうか。とまれ、ここで留める。

追記:イデア界と精神界の区別が以上でいいのか問題である。
 しかし、イデアはMedia Pointに存すると思われる。そして、精神・精霊・霊魂は虚軸に存すると思われるのである。だから、以上でいいのではないだろうか。

追記2:神話学的に見ると、イシスとオシリスの神話における太陽であるが、オシリスがプラス1としても、イシスはMedia Pointではないだろうか。
 しかし、父権的神話となると、イシスに当たるものが、怪物となり、殺戮されるのである。そう、Media Pointが混沌とされるのである。そして、プラス1へと傾斜するのである。そう、神話でウロボロスとされるものは、不正確であろう。本来はMedia Pointである。超越的極性(太極)である。
 ギリシア神話でアポロを考えると、両面が混在していると言えよう。それが、ニーチェの『悲劇の誕生』に現れていると考えられる。また、ゼウスもそうであろう。ギリシア神話は母権的神話と父権的神話が重なっているのである。

追記3:差異は原存在、同一性は現存在と仮に対応させて考えてみると、ハイデガーの存在論とは、 フッサール現象学の混濁化である。フッサールの意識(超越論的主観性)の場と自然的態度は不連続であるが、ハイデガーは、両者を存在的にして、かつ、連続化させてしまったのである。つまり、意識(超越論的主観性)の場と自然的態度を連続させ、意識の場を存在、そして、自然的態度を現存在に置き換えたと考えられる。
 そのため、フッサール現象学の画期的な不連続性が否定されてしまったのである。
 もっとも、存在をハイデガーの意味でなく、認識主体の意味で使えば、差異を存在、同一性を現存在と見ることは正しいことになる。
 
追記4:行為等に味があるというときの「味」とは、マイナス1のことではないだろうか。余韻とか余情とか気韻とかは、それではないだろうか。
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# by antares11131954 | 2010-02-13 00:06 | PLATONIC SYNERGY

検討問題:+iと-iの関係様相:父権的連続的同一性主義と母権的差異共振主義

今は余裕がないので、随想に留める。
 以前、男性は+iの傾斜があるといい、女性は、バランスがとれていると言った。しかしながら、女性は、-iの傾斜があるのではと言いたい誘惑がある。
 問題は、男性の場合、同一性化が女性よりも強いということである。だから、同一性傾斜があるということである。
 そして、女性の場合、差異共振性が保持されると思われるのである。もっとも、これは、理念的に言っているのである。
 言い換えると、男性の場合、差異共振エネルギーが連続的同一性化され、女性の場合は、それが、切断される契機をもっているということになる。つまり、女性の場合は、不連続・非連続になる傾向があるということである。
 これはどういうことなのか。女性の叡知(「ソフィア」)というものが、先天的にあるということなのか。力学的に考えよう。⇒+1の⇒を保持させる叡知があるということになろう。あるいは、Media Pointの叡知である。通俗的に言えば、バランスの叡知である。
 先に提起したことを作業仮説とすれば、+i/-i⇒-1の叡知があるということなのか。この⇒-1が連続的同一性化を否定するとは言えよう。とまれ、反・非連続的同一性化の叡知が女性には本来あるということになる。
 今は、作業仮説的に、⇒-1の反・非連続的同一性志向、即ち、不連続的志向性があるとしよう。
 ここで文化史・文明史的に見ると、母権文化から父権文化の転換において、前者の反・非連続的同一性志向性が否定されて、後者の連続的同一性志向性が肯定されたということになる。
 しかし、問題は、この転換を、物質性から精神性への転換と見るのが一般的なことである。女性は物質的で、男性が精神的であるという視点である。
 しかしながら、上記の視点では逆である。女性は精神的であり、男性こそ、物質的である。
 この混乱は、現象と物質を同一視する西洋文化の二元論性に由来すると考えられる(参考:フッサールの現象学)。先に述べたが、イデア⇒現象⇒同一性=物質であり、同一性=物質は抽象的仮象である。 
 とまれ、本視点から言うと、母権文化とは、イデア⇒現象的であるということであり、父権文化は形而上性(超越的同一性?=構造性)⇒同一性=物質的であるということである。
 この転換の意義はこれまで繰り返し述べたように、物質科学・技術の形成である。父権文化社会に転換しなければ、近代科学・技術はなく、未だに、井戸から水を汲み、川で洗濯をし、竈で食事を作っていた等をしていたと考えられる。それは、積極的な意味があったのである。
 しかし、それは、唯物論や狂気・暴力の不都合をもたらしたのである。
 今やトランス・モダンの時代である。これは、母権文化社会への螺旋的回帰と考えられる。父権文化社会の成果を批判的に包摂した超越的差異共振の文化社会の構築を意味するのである。
 今はここで留める。
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# by antares11131954 | 2009-07-11 01:30 | プラトニック・シナジー理論

+iの意識と-iの「無」意識:差異・他者への不安苦に発する、同一性自己意識の優越感の発生

先に同一性自己(自我)が他者に対してもつ優越意識について検討したが、さらに考究したい。
 +iの同一性自己意識が、-iの差異他者を認識できるだろうか。というか、-i自体の存在を認識できるだろうか。
 根本的に考えたい。Media Point から+iの同一性認識が発生するが、それは、-iの存在を認識できるだろうか。端的に言えば、+iは意識であり、-iは無意識であり、原理的には、前者は後者を認識できない。後者は他者であり、一種の物自体である。
 私は何を言いたいのかと言うと、Media Point の原基性である。それは、精神身体=心身一如なのである。つまり、+iの同一性、-iの差異は、精神身体=心身一如のMedia Point から起動するということである。
 【精神身体とは、言い換えれば、「魂」(「アニマ」)と言えよう。「霊魂」でもいいだろう。そう、魂魄(こんぱく)でもいいだろう。これは、また、陰陽的心身である。簡略的に、陰陽魂ないしは陰陽体と呼ぼう。】
 そう、+iは-iを認識できないのは元より、Media Point =陰陽魂も認識できないだろう。何故なら、+iの同一性意識にとっては、源泉は隠蔽されていると考えられるからである。同一性志向性は源泉のMedia Point =陰陽魂を隠すからである。そして、形成された同一性自己意識は、心となり、物質的身体や物質的外界と分離されるのである(心身二元論)。
 深層心理学的に言うと、無意識はMedia Point であり、又、-iである。(もっとも、ここでは、構造の無意識性は含めない。それは、超越論的形式や精神分析の無意識であるが、延長すれば、ラカンの現実界やハイデガー/デリダの存在/差延も含められよう。)
 -iはおいておくが、Media Point が無意識であるという点が決定的である。つまり、意識の原基・源泉である精神身体のMedia Point が認識されないことは最高度に重大なことであるからである。即ち、精神身体性=心身一如性の無意識であることの重大さである。だから、同一性自己意識は、同一性知性に留まり、特異性(Media Point =精神身体)の知性、理性知性をもちえないのである。
 ここで、本題の同一性自己の優越感について考察しよう。端的に、いったい何に対して優越感をおぼえるのか。それは、他者に対してであろう。つまり、同一性自己はなんらか他者に対抗意識をもっているのである。そう、無意識領域において、他者への引け目を感じているのではないだろうか。他者とは差異である。そう。同一性+iにとって、差異・他者-iは認識できない不安による苦をもたらすものである。この、いわば、不安苦に対して、同一性は同一性自己意識を形成することで、差異・他者に対して、優越感をおぼえるということではないか。
 ということは、+iは無意識領域では、漠然と差異・他者-iを感じ、不安苦をおぼえるのであり、それを否定するように同一性自己意識を形成して、優越感をもつようになるということではないのか。
 先の優越感の説明は、同一性志向性が(超越的同一性の)鏡像へと投影する際に、差異共振性を否定することから優越感を生まれるというものであった。しかし、上述では、(内的、ないしは外的な)差異・他者への不安苦に対する否定から優越感が発生するというものである。
 先の説明は、いわば、構造的であり、内的葛藤がないものである。後の説明は、原理に内的葛藤を見ているのであり、「人格」的である。そう、個的である。同一性+i(正確に言えば、原同一性+iである)は差異-i(Media Point を含めていい)を認識できないために、不安苦を感じるのであり、それを解消するために、差異-iを否定して、差異に対して優越性を感じるのである。言い換えると、差異に対する勝ち誇った、おごりの感情を感じるのである。後でもう少し整理したい。
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# by antares11131954 | 2009-02-24 02:21 | PLATONIC SYNERGY

ハロウィーンと妖怪:妖怪とは八百万の神々ではないのか

ハロウィーンと妖怪:妖怪とは八百万の神々ではないのか

テーマ:神話学・不思議学・フォークロア:ケルト他

ハロウィーンは、クリスマス同様に、異教の祭礼であり、日本でも流行ってもおかしくない。日本の場合、妖怪の「出現」と関係するということであるが、思うに、妖怪とは、八百万の神々の変容された姿ではないだろうかとふと思ったのである。(P.S. 死者の霊とも関係しよう。)
 神話学的逆転美学が考えられるのである。神道をなにか古典主義的に変化させた権力、父権主義の美学である。日本における父権制、それは、当然、封建主義である。日本的同一性主義(御用学問、だから、形式主義化した朱子学等が考えられよう)である。これが、擬似理性主義を装い、八百万の神々を妖怪に変えたのではないだろうか。宮崎駿やその他が妖怪を描くのは、直感・霊感で、原神道を捉えているからではないのか。後でさらに検討したいが、この視点から民俗学を新たに捉えることが可能になろう。
Godzilla's Older, Creepier Cousins
Beings Such as Filth Licker Haunt Japanese Culture

By Blaine Harden
Washington Post Foreign Service
Friday, October 31, 2008; Page A01



TOKYO -- Halloween is a frothy foreign import in Japan, an excuse to have a party and eat sweets.

Monsters, though, are a more serious matter. They are indigenous and reputed to be everywhere. One is called Akaname, the Filth Licker, and he haunts dirty bathrooms. Using his long, lascivious tongue, he eats bathtub scum.

http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/30/AR2008103004750.html?hpid=topnews

参照:

妖怪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
曖昧さ回避 この項目では超自然的存在について記述しています。司馬遼太郎 の小説については妖怪 (小説) をご覧ください。
妖怪「提灯お岩」
妖怪「提灯お岩」

妖怪(ようかい)とは、人間の理解を超える奇怪 で異常 な現象 を象徴 する超自然 的存在、あるいは不可思議な能力を発揮する日本の民間伝承上の非日常的存在のこと。妖(あやかし)または物の怪(もののけ)とも呼ばれる。ヨーロッパの民間伝承上の存在 fairy にはもっぱら妖精 の訳を当てるが、文化人類学においては、いずれも超自然的存在として包括的に区分されうる。 両者の語義の違いは歴史性はもちろんだが、翻訳とニュアンスに留まるところが多い。

神道 における荒ぶる神 (神 )、またはその依り代 、またはその仮の姿。 具体的には各地に残る天狗神社 、河童神社 や貧乏神 、宝船 (七福神 )など。

また動物 (鯨塚 、白蛇神社 、九尾の狐 、猫又 、犬神 )や道具 (道具塚 、朧車 、傘小僧 、鳴釜 、硯の魂 )も妖怪、神であるといえる。

鬼 、天狗 、河童 、座敷わらし などは、特に文献や伝承 が数多く残っているため、民俗学 の分野での研究が進んでいる。
妖怪の学術的研究

古代 から現代 に至るまで、時代と共に様々な妖怪が人々の生活の中から生み出されてきた。

妖怪の起源については種々ある。神道 の体系に組み込まれなかった古代の神々が起源であるとする残存物説。あるいは、科学 が未発達だった時代に現象の説明として多く用いられてきたことから、呪術的思考の結果とする説もある。例えば、肛門の開いた水死体が発見された場合に河童 が尻子玉 を抜いたからだと説明付けるのは、後者の一例と言える。

中国の奇書『山海経 』からなど、海外に由来のあるものもある。

出版文化が発達していく江戸時代 ごろからは黄表紙 などによって盛んに“キャラクター”として使用された。江戸時代の印刷・出版技術の発展とともに出版物が増え、また貸本屋の活躍により、妖怪のキャラクターが固定しそれが日本全国に広がっていった。たとえば、カッパに類する妖怪は江戸時代以前には日本全国に多くの種類があったが、書籍の出版によってそれがカッパに固定されていく。また、駄洒落や言葉遊びなどによってこの時代に創作された妖怪も数多く存在する。現在、妖怪辞典のような扱い方をされる鳥山石燕 の「画図百鬼夜行 」 などはその一例である。

北尾政美 は 1788年『夭怪着到牒』という黄表紙本の妖怪図鑑を出版するが、その序文には「世にいふようくわいはおくびょうよりおこるわが心をむかふへあらわしてみるといえども…」とあり、これはこの時代からすでに、妖怪を研究しながらも、その妖怪の実在性を疑問視していた人がいたことを示している。

画題としてもよく描かれ、有名な妖怪を描いた絵師に歌川国芳 、月岡芳年 、河鍋暁斎 、葛飾北斎 などがおり、また、狩野派 の絵手本としても『百鬼夜行 図』が描かれた。

妖怪というと一般には日本国内に出没するものを想起しがちであるが、海外の悪魔 や魔女 などを含めた魔物 の類も妖怪として扱われることがある。その時は「大陸妖怪」や「西洋妖怪」等と呼ばれるケースもある(「中国妖怪」は大陸妖怪の一種)。

京都には町家を改造した、妖怪堂という店があり、店主が京都妖怪案内をしてくれる。

[編集 ] 語彙としての妖怪

そもそも「怪異を起こす存在」を妖怪と呼ぶことはかなり新しい習俗である。かつては妖怪とは「怪しい・奇妙な事柄」自体を表す言葉であった。下記の研究者のうち、井上円了などはそうした意味合いで使用していた。だが民間に膾炙していった結果、かつて「化け物」と呼び習わされたキャラクターが「妖怪」という新たな言葉で呼ばれるようになっていった。現在「妖怪」と言えば、学術分野外では、そうしたキャラクターそのものと見て差し支えない。

日本の風俗から外れた、海外の魔物を「妖怪」と呼び習わすのは、こうした流れによるものである。

[編集 ] 現代妖怪

現代でも盛んに創作妖怪は作られる。前項の流れにより、伝承や古臭さのないモノもキャラクターが成立していれば、妖怪として認知されうるためである。

「学校の怪談 」や都市伝説 などから、口裂け女 、トイレの花子さん など新たな妖怪が誕生している。詳細は都市伝説一覧#現代の妖怪 を参照。

また宇宙人 、UFO 、UMA なども、一種の妖怪であると考える場合もある。

[編集 ] 著名な研究者

* 柳田国男 (著書遠野物語 等)
* 南方熊楠
* 井上円了
* 宮田登
* 小松和彦
* 多田克己
* 岩井宏實

[編集 ] 創作の題材としての妖怪

妖怪は芸術・娯楽の分野で、作品の題材としても数多く扱われてきた。

* 鳥山石燕 (1712年 -1788年 ) - 代表作『画図百鬼夜行 』。浮世絵師 。
* 上田秋成 (1734年 -1809年 ) - 代表作『雨月物語 』。国文学者 、小説家 。
* 小泉八雲 (1850年 -1904年 ) - 代表作『怪談』。小説家、英文学者 。
* 水木しげる (1922年 - ) - 代表作『ゲゲゲの鬼太郎 』。漫画家 。
* 京極夏彦 (1963年 - ) - 『巷説百物語 』など。小説家、妖怪研究家 。
* 畠中恵 (1959年 - ) - 代表作『しゃばけ 』。小説家。

すいこみ のような架空の妖怪も伝えられている。


・・・・・


[編集 ] テレビドラマ・映画

* アクマイザー3 (敵キャラのモチーフの中には日本や西洋の妖怪を元にしたものが多い)
* 河童のクゥと夏休み
* 仮面ライダー響鬼
* ぐるぐるメダマン
* ゲゲゲの鬼太郎 (実写版)
* 白獅子仮面
* 超神ビビューン (アクマイザー3の続編)
* 忍者戦隊カクレンジャー
* 変身忍者 嵐 (後半の敵は西洋妖怪群。但し、20話には日本妖怪のかわうそも出現している)
* 妖怪大戦争

[編集 ] 音楽

* 陰陽座
* Kagrra,
* 妖怪プロジェクト

[編集 ] 関連項目

* 都市伝説
* 日本の妖怪一覧
* 中国の妖怪一覧
* 伝説の生物一覧
* 妖怪文書の一覧
* 民俗学
* 文化人類学
* 自然霊
* 水木しげる

[編集 ] 参考文献

* 江馬務 著『日本妖怪変化史』中央公論新社  中公文庫BIBLIO ISBN 4122043840
* 柳田国男著『妖怪談義』講談社  講談社学術文庫 ISBN 406158135X
* 小松和彦著『日本妖怪異聞録』小学館 [小学館ライブラリー] ISBN 4094600736
* 小松和彦著『妖怪学新考――妖怪からみる日本人の心』小学館ライブラリー ISBN 4094601325
* 小松和彦編『日本妖怪学大全』小学館 ISBN 4096262080
* 小松和彦『妖怪文化入門』せりか書房 ISBN 4796702717
* 香川雅信著『江戸の妖怪革命』河出書房新社  ISBN 4309224334

[編集 ] 外部リンク

* 怪異・妖怪伝承データベース
* 宗優子 妖怪キッズ
* 和漢百魅缶 (クロヌシカガミ 内)
* The Obakemono Project: Eine Datenbank über Obake und Yōkai - ドイツ語

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、妖怪 に関連するマルチメディアがあります。
執筆の途中です この「妖怪」は日本の文化 に関する書きかけ項目 です。この項目にさらなる加筆、訂正 などをして下さる協力者を求めています(ポータル 日本 /ウィキプロジェクト 日本文化 )。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%96%E6%80%AA " より作成
カテゴリ : 日本文化関連のスタブ項目 | 妖怪
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# by antares11131954 | 2008-11-01 10:29 | メディオロゴス

自己認識方程式の+1の意味:差異即非的同一性=個

久しぶりに投稿します。
現在は、以下で更新しています。
http://ameblo.jp/renshi

自己認識方程式の+1の意味:差異即非的同一性=個

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

今は簡単に言うが、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺の+1であるが、これは決定的な意味をもっていると思う。もし、左辺だけだと、完全に相対主義になり、「わたし」(同一性)がなくなるのである。例えば、犯罪を犯した人が、左辺的視点だと、特定(同一性化)できずに、犯罪者にはならなくなるのである。つまり、「わたし」は「わたし」の視点がないのである。言い換えると、左辺では、常に、即非的共鳴が発生していて、個が特定されないと言えよう。量子論で言えば、量子は粒子ではなく、単に波動であるということに相応するのではないだろうか。即ち、粒子=+1だと考えられる。
 とまれ、量子論のこの点は興味深いので、脱線的に考察しよう。量子とは端的に、Media Pointだと思う。そこでは、波動エネルギー(イデア・エネルギー)があるが、同時に、粒子エネルギー(物質エネルギー)でもある。この波動/粒子的即非状態が実に興味深いのである。
 思うに、量子(素粒子)とは波動/粒子即非点と言えよう。問題は既述したように、波動は超越界=イデア界に根差していることである。超越界(高次元)において、量子波動が存しているのである。この点が、リサ・ランドールが五次元を説く前では、無視がされていたのである。長距離相関という考え方は不要になるのである。量子波動は高次元に存しているからである。
 問題は、量子波動の電磁波性である。あるいは、電磁波とは何か、である。電波には、高次元性があると考えられるが、それはどういう意味をもつのか、である。
 思うに、高次元的情報があるのではないだろうか。高次元的情報は例えば、人間の知性や精神を形成するのではないだろうか。あるいは、生命情報ではないだろうか。それは、物質(例えば、鉱物)を形成する物質情報とは質的に異なるだろう。
 今はここで留める。

P.S. 高次元的情報と言ったが、実は、鉱物においても、そのMedia Pointにおいては、高次元的情報があるのである。だから、高次元的情報の種類を考えなくてはならないだろう。高次元的情報(以下、高次元情報)の質的区別はどのようなものだろうか。今思いついたのは、ラセン形状の情報である。DNAと似ることになるが。
 高度であればあるほど、情報はラセン形状が複合・多層・重層化しているのではないだろうか。
 この高度情報化の構成はどういうものなのか。今思いついたのは、回転である。イデアの回転が多い方が、情報がより高度化しているのではないだろうか。つまり、神々の情報が鉱物の情報よりも高度なのは、前者におけるイデアの回転数が後者におけるよりも高速であることに拠るのではないだろうか。今はここで留める。検討課題である。
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# by antares11131954 | 2008-09-03 01:59 | PLATONIC SYNERGY

プラトニック・シナジー理論からイエス・キリスト問題を考察する:その2:受肉説の崩壊と二人のイエス

昨日、イエス・キリスト問題をプラトニック・シナジー理論の視点から試論的に考察した。http://ameblo.jp/renshi/entry-10061584053.html
かなり複雑な内容となり、わかりにくいので、ここで、再考も含めて整理したい。
 結局、考察の発端は、スロー人ロハス氏の提起されたグノーシス主義説(仮現説)とキリスト教会説(受肉説)であった。そして、私は、プラトニック・シナジー理論から即非説を提唱した。
 先の論考では、即非説から、仮現説と受肉説を見て、両方とも否定する結果となったが、今、平静に見ると、即非説とは、超越エネルギーをイエスは即非共振しているということであり、即非共振している領域は、イエスの心(霊)であり、肉体ではないだろう。だから、仮現説と受肉説を考えると、仮現説は即非説と同じになると思えるのである。つまり、イエス・キリストとは、神霊の仮現であるということである。
 ただし、完全に仮現説を肯定するわけではない。なぜなら、仮現説だとイエスの心とは別に神霊があり、それが、イエスの心身に仮現しているということになるからである。即非説は、イエスの心(霊)において、神霊が即非共振していると考えるのである。これは、先に述べたように、イエスは神であり、また、神ではないということである。精密に言うと、イエスの心は神であり、同時に、神ではないということである。
 だから、まとめると、即非説は、受肉説(キリスト教セントラル・ドグマ)を完全に否定するが、仮現説に対しては、一部は正しいと認めることになるのである。すなわち、イエス・キリストは神の仮現(神ではない)という点は肯定するということである。しかし、仮現説は、イエスは神であるという点がないので、欠陥があると考えられるのである。
 これで、即非説、仮現説、受肉説の説明が整理できた。次に、問題をさらに複雑にした同一性の問題、ないしは、イエスの二面性あるいは、できれば、二人のイエスの問題を整理したい。
 この問題も上記の問題に匹敵するような最難問の一つである。これは、父の問題として捉え直すことができる。つまり、Media Pointにおいて、神霊エネルギー=超越エネルギーと共振した人物として、イエス・キリストがあるならば、それは、本来的には、太母の子となるはずである。神話学的に言えば、神霊エネルギーをイシスとすれば、イエスはオシリスである。日本神話では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に対する日御子(ひのみこ)=「天皇」である。カトリック的に言えば、聖母の子である。しかしながら、聖書では、イエスは神を父と呼んでいる。この矛盾をどう考えるのかということでもある。
 太母の子と父の子。私は、昨日の拙稿では、両者が混淆していると考えたのである。矛盾・二面性があると述べたのである。(二人のイエスという伝承があるが、ここで考察すると議論が混乱するので、残念ながら、避けることにする。)
 直感では、やはり、太母の子と父の子が重なっているのである。(私は、昔、新約聖書を読んで、強くイエスの分裂性を感じたものである。そう、わかりやすく言えば、平和の御子であり、同時に、戦争の魔神である。)だから、問題は、この重なりをどう理論化するのか、ということになる。本当に難しい問題である。つまり、いろいろ仮説が立てられるのである。やはり、二人のイエスの伝承を言う必要があるように思えるのである。
 結局、二人のイエスの伝承を仮説として取りあげれば、一人のイエスは太母の子であり、もう一人のイエスは父の子ではないかと思うのである。実際に二人のイエスが存して、それぞれ、違う教えを唱えたように思うのである。
 太母の子とは、結局、太古の秘儀・密儀の叡知に通じる考え方であり、プラトニズムとも共通する考え方から生まれたものである。それに対して、父の子とは、ユダヤ教のメシア待望から来ていると思われるのである。つまり、端的に言えば、ヤハウェの子である。
 結局、女神の子であるイエス(簡略して太母イエス)とヤハウェの子であるイエス(父の子)の二人が実際に存していたと仮定するのである。前者、 Media Pointの教えであり、それは、『トマスによる福音書』に現われたような教え(グノーシス主義的教え)を説いていたと考えられるのである。
 それに対して、ヤハウェの子のイエスは、自分がユダヤ教が待望した救世主であることを説いていたと考えられるのである。つまり、神人イエスである。(そう、これは、また、ゾロアスター教に関係すると言えよう。ハルマゲドン、千年王国、最後の審判等の問題である。)
 ここで、民衆の問題がでてくるのである。民衆はどちらのイエスの教えを受け入れたのか、である。当時、ローマ帝国の圧制に窮乏していた民衆は当然、救済する神を待望していたことは考えられるのである。また、諸宗教が混淆していたヘレニズム時代であることを考えなくてはならないだろう。太陽信仰のミトラス教もあったのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99
 思うに、民衆はそれらを知的に峻別したとは思えない。諸宗教が混淆したまま、信仰したに違いない。それを考慮して、二人のイエスを考えると、民衆は両者を受け入れたことが考えられるのである。要は民衆は両者を区別しなかったと考えられるのである。つまり、二人のイエスが民衆の心の中で、混淆していたということである。
 私の考えでは、福音書は、キリスト教会の立場から、二人のイエスの教えを、父の子の教えの視点から、まとめて書かれたものではないのかというものであったが、今、考えたのは、民衆の心中の二人のイエスの混淆された心象に基づいた書かれたものではないのか、ということである。
 とは言え、やはり、何らかの区別はあったと思うのである。しかしながら、福音書書記は、父の子の視点から、それを統一させようとして書いたと思われるのである。つまり、キリスト教会の視点から、福音書を書いたと思われるのである。
 整理しよう。二人のイエスがいた。太母の子のイエスと父の子のイエスである。そして、民衆は、両者を混淆した心象をもっていた。しかしながら、混淆していても、民衆は、なんらか、二人のイエスが存したことは認識していたはずである。しかしながら、福音書書記は、キリスト教会、即ち、父の子の視点から、二人のイエスの教えを統一しようとして書いた(創作した)と考えられる、ということである。
 しかしながら、福音書書記の努力によっても、二人のイエスの全く異なる教えは調和できなかったのである。正に、水と油の教えであるからである。平和と戦争を同時に説いているのだから。本来別々のものを、父の子の視点で統一しようとすることに無理があるのである。
 とまれ、後世において、キリスト教会・父の子の視点が勝利して、太母の子のイエスの教えが否定されていったと言えよう。つまり、キリスト教とは、二人のイエスの伝承・史実を無視して、また、太母の子のイエスの教えを父の子のイエスの教えに同化したものであるということである。端的に言えば、愛の教えとは、太母の子イエスの教えから発したものであり、それは、本来は、Media Pointのもつ差異共振性であると考えられるのである。それは、「汝自身を愛する如く、隣人を愛せよ」ではないはずである。「汝自身」という言い方が自我的である。それは、Media Pointにおいては、無我になるのが正しいのであり、汝という自我はないのである。これは、太母の子のイエスの差異共振性の教えが、父の子のイエスの自我主義によって歪曲されていると考えられるのである。
 とまれ、太母の子のイエスの教えと父の子のイエスの教えが、後者の視点で混淆しているのが福音書であると推察できるのである。
 最後に、父の子のイエスの同一性について説明した本稿を終えたい。これは、神人の観念と通じるのであるし、自我の観念に当然通じるのである。
 いったい、父の子とは何だろうか。父とは、超越的同一性志向性である。自己認識方程式では、+iであり、太極原理では、陽である。これは、同一性主義を生む根元である。だから、父の子であるイエスとは、直感では、同一性中心主義(ロゴス中心主義:教父たちは、イエス・キリストをロゴスの受肉と捉えたが、それは、教会の視点からは、恐ろしく正しい。いったい、教父たちとは何であったか。初期キリスト教会とは何であったのか。悪霊と悪魔の巣窟ではなかったのか。)である。
 そう、子とは何だろうか。それは、イシスとオシリスの宗教・神話からわかるように、イシスが太母であり、その子がオシリスである。イシスを月とすれば、オシリスは太陽である。もっとも、この区別は即非的である。イシスを太陽と見ることもできよう。
 とまれ、子とは、超越エネルギーが連続エネルギーへと転化することを意味すると思われるのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で見れば、⇒ +1であり、連続性・同一性を意味するだろう。しかしながら、父の超越的同一性志向性が基盤にあるので、父の子とは、超越的同一性主義になるということであろう。つまり、父の超越的同一性志向性が、父の子において終極(エンテレケイア)を形成して、超越的同一性主義になると考えられるのである。これが、父の子のイエスの哲学的意味である。これは、正に、近代合理主義の原点である。そして、悪魔主義である。父の子イエスとは端的に悪魔・魔神である。
 ということで、福音書のイエスには、福神と魔神が混淆しているのである。なんというアイロニーであろうか。しかし、事実である。これが、精神的観点から言えば、人類史上最大の災厄、最悪である西洋文明を生みだしたのである。
 今日、新たに、Media Point、Cosmic Media Point、Great Media Pointが啓かれていると考えられるのであり、新たな文明の入口に達していると考えられるのである。理論的には、ユダヤ・キリスト教西洋文明の日没であり、新たな東洋文明の曙光を意味すると考えられるのである。
 では、イエス・キリストはどうなるのだろうか。そう、太母の子のイエスは復活するのである。太母子教が生まれるだろう。新女神教である。太母子イエス教が生まれるだろう。D.H.ロレンスが『逃げた雄鶏(死んだ男)』で表した復活したイエスとは、正に太母の子のイエスである。
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# by antares11131954 | 2007-12-23 18:48 | ポストキリスト教的西洋文明

Media Pointと同一性の関係:プロテスタンティズムにおける超越性と同一性の関係

本件の問題を最近は追求しているが、既に解決済みと思っていたが、簡単には済まない。結局、Media Pointから差異が同一性へと転換するときの様相の問題である。
 私はイタリア・ルネサンスが差異の発動であり、その後の差異の展開はプロテスタンティズムであると述べた。差異の発動とは、新たなMedia Pointの賦活であると考えられる。超越界=イデア界において、おそらく、新たな回転が生起して、Media Pointが新たに活性化したと考えられる。即ち、Media Point=i*(-i)において、A) i→-iとB) -i→iとが発動したと考えられる。この両面が混淆ないしは未分化様態であったのが、イタリア・ルネサンスであったと思われる。
 私は先に、iが能動性ないしは父権性であり、-iが受動性ないしは母権性ではないかと提示した。これを作業仮説とするなら、Aは、能動性であり、Bは受動性である。そして、iには形相性、-iには質料性を考えると(これも作業仮説)、Aは能動的同一性の形成、Bは受動的身体性の形成を意味するのではないだろうか。
 以上の作業仮説から、次に、プロテスタンティズムを考えると、それは、Aが主導的になったキリスト教であると考えられる。
 問題は、A主導における神性とは何か、である。Media Pointにおける超越的エネルゲイアから、A主導性は駆動されていると考えられる。問題は、Media Pointの超越的エネルゲイア(以下、超越的エネルギー)は、差異共振・差異即非に拠るのであるから、プロテスタンティズムの神性のエネルギーも、それに拠ると考えられる。そう、これまで、私はプロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内包していると述べてきたが、ルネサンスの内包とは、この差異共振・差異即非を意味すると言えよう。
 ということで、プロテスタンティズムはMedia Pointの超越的エネルギーに賦活・駆動されていると考えられる。しかしながら、問題は、A主導的であるということである。これは、差異を否定する同一性衝動であるから、プロテスタンティズムは、自己否定的に発展すると言えよう。差異共振エネルギーに駆動された同一性衝動である。
 そして、近代の進展とともに、近代合理主義と結合して、根源のMedia Point=差異共振エネルギーを喪失していったと考えられる。いわば、プロテスタンティズム近代合理主義の形成である。そして、これに自由主義と民主主義が結合して、西洋近代主義が完成すると言えよう。
 もっとも、自由とは起源的には、ルネサンスのMedia Pointから発しているし、民主主義は、起源的には、絶対王制に対するプロテスタンティズム的市民(資本家を含めた)の権利意識から発したと言えよう。つまり、民主主義は、キリスト教的であるということであり、これは、やはり、ルネサンスをベースにしたプロテスタンティズムの近代的自我意識に基づくと考えられる。
 だから、簡潔に言えば、西洋近代主義はルネサンス/プロテスタンティズムと近代合理主義(近代科学・技術)の結合によると言えるだろう。
 結局、根源のMedia Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーを近代主義は喪失していくのであるが、その換わりに、いわば、同一性的力動(力学)を強化していくと考えられる。
 これはどういうことなのだろうか。これは、端的に、超越的エネルギーが、同一性エネルギーに転換するということだろう。同一性エネルギーとは、おそらく、物質エネルギーと言っていいのではないだろうか。というか、力である。物質的力に変換するのだと思う。能動的な力ないしは暴力、権力である。
 では、この超越性から同一性への転換において、神性はどうなるのだろうか。そう、同一性への転換において、神性はどうなるのか。初期においては、 Media Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーが発動しているが、これが、同一性エネルギー=力へ転換するとは、基本的には、根源の神性を喪失するということになる。そして、これが、欧米近代化においって発生したことだろう。
 しかしながら、根源の神性とは、Media Pointの超越的エネルギーのことである。そして、これは、確かに、同一性衝動へと転化したと言えよう。
 だから、問題は、超越的エネルギーと同一性衝動の関係である。前者はすべて後者へと転化したということなのだろうか。それとも、後者においても、前者は残っているのであろうか。
 ここでも直感で考えよう。つまり、根源の超越的エネルギーが、同一性力動に転化されるということは、基本的には、根源の超越的エネルギーは残っているのであるが、それが変質する、変化するということなのである。
 この超越性⇒同一性エネルギー(超越性/同一性エネルギー)がプロテスタンティズム的力動であると考えられる。この超越性⇒同一性の様相がプロテスタンティズム的一神教の様態であると考えられるのである。
 問題は、超越性が同一性へと変換してしまい、Media Pointの差異共振性が喪失されることである。つまり、個人主義化されるが、ここには、差異、差異共振性が喪失されるのである。絶対性があるが、それが、個人主義化すなわち近代的自我化されるのである。そして、これこそ、ハイデガーの本来的存在を意味しよう。そして、また、ニーチェの超人(否定的に見た場合)も意味するだろう。ここには、傍若無人な、非社会的な、そう、ホッブズ的な個人があるのである。シェイクスピアで言えば、『リア王』のエドマンド、ゴネリル、リーガンであろう。
 ユダヤ/キリスト教はプロテスタンティズムに帰結したと言えよう。ここでは、イエス・キリストの本来の教え(差異共振性と考えられる。仏教と同じである。)は喪失されて、ユダヤ/キリスト教的一神教の自我の力学が実現したと言えよう。
 結局、プロテスタンティズムとは、ルネサンスから発して、ルネサンス的差異共振性の否定・排除・隠蔽であるということである。そして、このプロテスタンティズムが資本主義と融合しているのである。つまり、唯一神と資本とが一体化しているのである。これは、いわば、絶対的同一性=資本主義であり、差異=他者を否定する暴力・破壊・悪魔主義と言えるのである。
 ここでは、資本が唯一神であり、資本を妨害する差異は排除されるのである。しかしながら、ユダヤ/キリスト教的資本主義が鈍感にも理解していないことは、資本=同一性は、差異(差異共振性)がなければ、発生しないことである。企業とは、差異共振性がなければ、創造性・協力性がなく、成り立ち行かないのである。
 結局、ここには、暴力・破壊・悪魔的なユダヤ/キリスト教的資本主義の乗り越えとして、差異共振的トランス・キャピタリズムが発現する必然性があると言えよう。トランス・モダン政治経済である。
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# by antares11131954 | 2007-11-01 21:13 | ポストキリスト教的西洋文明